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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

19.奈良・山の辺ラインをちらほらと「大和神社」① 


連休を利用して奈良の地を探索してまいりました。
奈良へは以前、仕事の関係で大阪に赴任していた時以来なので、15年ぶりになります。
当時は京都や大阪方面での仕事が多かったため、奈良にはあまり行かず仕舞いでしたねぇ。
なので今回は、リベンジ的な気持が多少なりともあったかと思います。

だけど、奈良も暑いですねぇ。
刺さるような陽射しに、
「九州よりも暑いじゃん!」って
同行の息子に愚痴が思わず口を衝いて出てしまいます。

今回の奈良入りの最初の訪問は
まずもって「大和神社(おおやまとじんじゃ)」です。
私にとっては、前々からお詣りしたい社のナンバーワンでした。
鎮座地は奈良県天理市新泉(にいずみ)

百嶋氏は講演会で、この地「新泉」に関連して(「肥後翁のblog」から転載)

イズミの話はしました。
もう一つ、イズミとソネ、イズミの出発点は佐賀です。
ソネの出発点は前原のソネ台地、三雲、伊都、そこがソネの出発点です。
このソネとイズミが一緒になって、九州王朝神霊東遷のときに、九州王朝の古い神々をお守りして東へ遷ったのです。
終点は、現在の奈良の天理市、天理王のみこと、天理王のみことは博多の櫛田神社の神様です。そこに到着するまでに、イズミ(佐賀)、和泉(大阪)、最後は、新イズミ、これは現在の天理市です。
一方、ソネ(糸島)、何々ソネ、何々ソネ、終点はやはり奈良です。
とにかくこの二つの系統が九州王朝神霊を大事にお守り申し上げた。
この時の九州王朝神霊御東遷護送団の団長は女性です。圧倒的格式のスサノオのお嬢さんです。イツクシマ神社のイツクシマ姫です。

と話しています。

そして大和神社については、ご自身の資料に「九州王朝の超格式宮」と記されています。

参道入り口の一の鳥居
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道路面して建っている一の鳥居から、鬱蒼とした木々に囲まれた真っ直ぐな参道が奥へと続いています。
折しも、氏子の方々が環境整備をされているようで、参道は作業車などで何やら活気づいていました。

二の鳥居
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やがて、二の鳥居を過ぎると、夏日に照らされた拝殿が見えてきました。
杜を背にした社殿が穏やかに鎮座されています。
旧官幣大社の風格でしょうか、威厳に満ちていますねぇ。

拝殿
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本殿は一間社春日造り。
檜皮葺で同規模の社殿が三社、並列に鎮座されていました。
建物は木階、扉、千木、垂木、鰹木などに金箔押しの飾り金物が施され、重厚な造りの中にも落ち着いた煌びやかさが心地よく伝わってきます。
千木は三社とも外削り(男神)でした。

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百嶋先生は生前、この大和神社と親交が深かったようですね。
事前に連絡していたこともあり、宮司さんは既に境内で待っておられました。
簡単なあいさつの後、拝殿でご祈祷をしていただき、大神の御前に玉串を捧げることもできました。
思ってもいなかった神事でのおもてなしに痛み入るばかりです。

神社資料(大和神社由緒略誌)によると祭神は、
 
 日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ) : 中央
  (=大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)) 
 八千戈大神(やちほこのおおかみ)        : 向右
 御年大神(みとしのおおかみ)          : 向左

当社発行の「大和神社歴史の変遷(平成29年3月発行)」)には、

【大和神社について】
 大和神社の祭神日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は、第十代崇神天皇により国土(土地)の守護神として、皇祖神天照大神(ああてらすおおかみ)と共に瑞籬宮(みずがきのみや。桜井市金谷付近とつたえられる)の大殿(皇居)内に並斎されていましたが、両神の勢いを畏れ同じ殿内に居ることに不安を覚えた天皇は、二人の内親王、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を斎王として天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)に、渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に大和大國魂大神を託されてお祀りになられました。
 しかし、渟名城入姫命は髪が抜け、やせ細って祀ることができなくなったと崇神天皇の条で日本書紀は伝えていますが、大和神社の場所は記載されていません。
 前者が伊勢神宮、後者が大和神社の始まりとされています。

【垂仁天皇の御代に現れた大國魂大神について】
第十一代垂仁天皇二十六年十月天照大神を伊勢に遷宮された時、大和大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)が大水口宿禰(おおみなくちのすくね)の夢に出て言われるのは、「初めの約束は、天照大神はすべての天原(あまのはら)を治め、代々の天皇は葦原中国(あしはらなかつくに 日本の別名)の諸神を治め、自分は自ら地主の神を治めることであった。先皇は神祇をお祀りになったがその根源を知らず云々」と祀り方に不満を述べられたため、渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)に命じて、神地を穴磯邑(あなしむら)に定め、大市の長岡岬(ながおかみさき)にお祀りなされた。しかし、渟名城稚姫命も髪が抜け、痩せ細って祀ることができなかったので、大倭直(おおやまとのあたい)の祖、長尾市宿禰(ながおちのすくね)に命じてお祀りされたとのことです。

(中略)

「大和神社の神々」
 当初は、日本大國魂大神一座が祀られていたものと考えられますが、延喜式神名帳には三座とありいずれも名神大社と記されていることから、延喜年間(901~923年)には三座が祀られていたことになります。倭大國魂大神以外の二座については、諸説あるようですが、現在は「大倭神社注進状(平安末期の1167年に大倭神社の祝部大倭直歳繁が国司宛てに提出したもの)」に従って、中央本殿に倭大國魂大神、向かって右殿に八千戈大神(やちほこのおおかみ)、左殿に御年大神(みとしのおおかみ)が祀られています。
 日本大國魂大神は、「大倭神社注進状」によりますと、大己貴神(おおなむちのかみ)の荒魂(あらみたま)で大地主神(おおとこぬしのかみ)とも言い、八尺瓊(やさかに。玉の意)を御神体としています。

(中略)

山上憶良が遣唐使の航海の安全を、この神に祈ったことは、当社の祭祀氏族である大倭直氏が関係しています。
「新撰姓氏録」によりますと、大倭直氏は神武東征の時、水先案内者として登場する海人族の椎根津彦(しいねつひこ。日本書紀では豊後水道、古事記によれば明石海峡に最寄りの地を本貫とした)を祖としており、その後、大和国造(やまとのくにのみやつこ)に任じられ、天武朝に宿禰(すくね)姓を賜った氏族です。
 その海人族が祀る神として倭大國魂大神は山上憶良の時代になっても航海神としての神格を保持していたものと思われます。
「日本の神々(白水社刊)」には、「大倭直氏は大和宿禰として奈良時代を通じて当社の祭祀を司り、平安時代に入っても一族の名が国史に散見されるが、中世には史上から姿を消しました。おそらく火災のあった永久6年の頃を境として衰えていったのではないか」と記されています。
(以下、略)
と記述されています。

神社由緒や宮司さんの話などから、本殿の中央に祀られている大和大國魂大神については、大国主命、あるいは祭祀を司ってきた一族の祖である椎根津彦と考えておられるようです。
ただ、右殿には八千戈大神として大国主命が祀られています。
なので、本殿に同じ神が並んで祀られるということは、どうにも考えにくいですね。
また、椎根津彦も水先案内人なので、両神を従えるように中央に祀られるということもないのではなかろうかと思います。

では、日本大國魂大神とは?

そう言えば、百嶋氏と古川氏(ひぼろぎ逍遥)との対談(懇談?)の中で、こういったやり取りが残されています。

古川氏)「伊勢神宮は何で、奈良からあんな外れた所に置かれたのですか?」

百嶋氏)「これはですね、ユダヤ・イスラエル系を中心とした一派が、(すなわち)高木大神を中心とした一派が、そのぉ、この人、呉の国の太白王の系統と対決するんですよ。思想的に。なぁーに、あの、五、六人の奴らのために、自分たちが拝む必要があるのか、ということで、高木大神にとっては従兄妹である天照大神(イトコと思います)の方を現在の天理市から切り離して、連れて行くんですよ、伊勢の方へ。魂を連れて行くんですよ。」

古川氏)「追い出した、ということですか?」

百嶋氏)「連れて行くんです。元々はですね。天理の大和神社に祀られていた天照大神、元々は。それを引っ張り出して、伊勢の方に移したんですよ。」

古川氏)「邪魔だった、からということですか?」

百嶋氏)「ずばり言うて、こっちの系統のですね、直系である神武天皇が気にくわんというわけですね。そして、そのぉ、高木大神は自分の息子のニニギを天孫なんかと言い出したわけですよ。」

古川氏)「…」

百嶋氏)「ところが、威張りすぎたもんですから、高木大神の本家筋にあたる大国主の方が怒っちゃった。大国主はですね、九州王朝を守って、そして、自分の家は潰して、九州王朝から養子を迎えたんですよ。それが現在の、大三島神社、オオヤマツミ神社です。」


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つまり、百嶋系図では、大日女貴(オオヒルメムチ=天照大神)の父は姫氏なのですが、母は高木叔母であるため、天照大神は高木大神の一族であるとも言えます。
一方、神武天皇の御父は天照大神と同じ姫氏(列島・大率)なのですが、御母は白川伯王(奴国王)の御子である(神)玉依姫(かむたまよりひめ)であり、高木大神一族とは相容れない関係であったようです。
ですから、天照大神の御霊は大和神社から追い出されたわけではなく、高木大神の一族によって連れ出され、伊勢の地で奉斎されたということのようです。

ということは、大和神社の中央に祀られている大神は、やはり、神武天皇と考えてもよいのでしょうか
そこのところは、百嶋先生は(無用の混乱を避けるため?)普段の講演会では明言をしなかったようですが、リラックスされた対談の中で、先生の奥深い知見の一端がキラリと光を放ったかのようでした。

おそらく、先生には、真実の大和神社の歴史の変遷がくっきりと見えていたのでしょう。

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【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】


Posted on 2017/07/28 Fri. 23:30 [edit]

category: 日記・古代史

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