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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

21.【神武天皇伝承】椎根津彦神社(大分市佐賀関)と大和神社(奈良県天理市)① 


このところ、
佐賀関の椎根津彦神社詣でを繰り返しております。
理由は、夏に訪れた奈良の大和神社(おおやまとじんじゃ)で、神職の方から聞いた言葉が耳に残っていたからでした。
それは、大和神社に鎮座する日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)とは「椎根津彦」のこと、というものでした。

以来、佐賀関神山に鎮座する当社を幾度となく訪れ、そのことについて考えを巡らせているのでした。
もちろん、社殿や境内を幾ら見渡しても、ヒントの欠片も落ちておりませんが‥。

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ここ椎根津彦神社は、佐賀関の半島地頸部に早吸日女神社と山一つを隔て、背中を合わせるように鎮座されています。
社格は旧縣社なのですが、参拝者もあまり多くないためか、どことなくひっそりと静かに佇んでいる、といった印象です

漁港近くに車を駐め、海岸沿いの国道と平行して山際を縫うように走る細い路地をしばらく進んでいくと、民家に挟まれた、うっかりすると見過ごしてしまいそうな参道入り口に辿り着きます。
少しばかり参道を登り、見上げると、これまでの神社とは少し違った感じの社殿が山を背にして鎮座されています。
海上からの強い風雨に負けないよう、コンクリートで丈夫に造られた拝殿です。

椎根津彦神社の社号標
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境内入り口の鳥居と参道
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拝殿
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神額
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本殿:見返り龍の虹梁
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拝殿-本殿
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本殿
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祭神は椎根津彦命(しいねつひこのみこと)。
そして、武位起命(たけいこのみこと)、稲飯命(いなひのみこと)、祥持姫命(さかもつひめのみこと)、稚草根命(わかかやねのみこと)が合祀されています。

椎根津彦命について、ウイキペディアでは

神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。
その後、神武天皇に献策し、兄磯城( えしき )を挟み撃ちにより破る。
速吸門については諸説ある。
『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、大分県大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。
『古事記』では吉備国の児島湾口を指すと考えられる。
岡山県岡山市東区水門町には、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。

と記載されています。

県内で椎根津彦命を祀っている社は、当社近くの早吸日女神社の境内社として鎮座している木本社(きもとしゃ,こもとしゃ)、それから由布市湯布院町の大杵社(おおごしゃ)などで、いずれも神武天皇の東征神話と由緒が関連づけられています。

百嶋神社考古学では、神武天皇東征の伝承は神日本磐余彦尊ご自身ではなく、(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとしています。
中津市の薦神社(こもじんじゃ)に「一つ巴紋」が飾られていますが、この神紋が贈)崇神天皇の足跡の証とされています。

薦神社の神門
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そして、(贈)崇神天皇椎根津彦は兄弟であり、共に母は鴨玉依姫(神直日)とされています。
さらに、百嶋系図では、鴨玉依姫早吸日女(ブログ№18「早吸日女神社③」を参照)と同一神とのことでしたので、早吸日女神社近くに息子神である椎根津彦命が祀られていることは当然と言えば、当然なのでしょう。


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百嶋系図でも「倭彦」の文字が確認できますね。
では、大和神社とはどういった繋がりがあるのでしょうか。

椎根津彦について佐賀関町史(昭和45年発行)には、

 速吸の門を通過の際、天皇は国神(くにつかみ)椎根津彦(珍彦(うずひこ))に遭われこれを水先案内とされたが椎根津彦は行く先々で戦功を立て、後に倭直部(やまとのあたひら)の先祖となった。
 もとより『記紀』の神武伝承は神話であって、史的事実と違うが『記紀』を科学としての歴史の立場で読めばその中に建国期における佐賀関の価値も見出せると思う。
 ただ速吸の門の椎根津彦のくだりが、『記紀』の夫々の記述にいささかの相違点があるので、次に原文のかきくだしをのせて対比して見よう。

『古事記』の記述
 「故(かれ)其の国より上り幸(せ)でます時に、亀の甲(せ)に乗りて釣ししつつ来る人、速吸門に遇いき。ここに喚びよせて「汝は誰ぞ」と問はしければ「僕(あ)は国の神名は宇豆毘古(うづひこ)」とまをしき。
 また「汝は海道(うみつぢ)を知れりや」と問はしければ「能く知れり」まをしき。
 また「従(おとも)に仕へまつらむや」と問はしければ、「仕えまつらむ」とまをしき。
 かれすなはち槁機(さお)を指し渡して、その御船に引き入れて、すなはち槁根津日子(さをねつひこ)といふ名を賜ひき。
 こは倭の国の造(みやつこ)等が祖なり。」

『日本書紀』の記述
 「天皇自ら諸皇子を帥ゐて、舟師(みふねいくさ)東を征ちたまふ。
 速吸之門に至ります。
 時に一人漁人(あま)有り、艇(をぶね)に乗りてまゐる。
 天皇招(めし)せて、因りて問ひて曰わく、汝(いまし)は誰ぞ。
 対へて曰く、臣(やっこ)は是れ国神(くにつかみ)なり、名を珍彦(うづひこ)と曰ふ。
 曲浦(うらわ)に釣魚(つり)す。
 天つ神の子(みこ)来(いで)ますとうけたまはり、故(か)即ち迎へ奉る。
 又問ひて曰く、汝能く我が為に導(みちびき)つかまつらむや。
 対へて曰く導つかまつらむ。
 天皇勅して漁人に椎槁(しいさを)の末を授(さしわた)して執らしめて、皇舟(みふね)にひきいれ、以て海導者(みちびき)となし、乃ち特に名を賜ひて椎根津彦と為したまふ。
 此れ即ち倭直部(やまとのあたひら)が始祖(とほつおや)なり。」

 さらに『日本書紀』では神武天皇が国見丘の八十梟帥(やそたける)を征伐の際、椎根津彦天皇の命を受けて敵地に潜入し、天香山の土をもって帰って献上して戦勝の占に役立ち、また兄磯城彦を帰順させた際にも椎根津彦は天皇に奇策を献じて、皇軍を有利に導いたことなど、椎根津彦の活躍が大きくとりあげられている。
(中略)
 その他、『姓氏録大和神別(815年、万多親王編)』には「大倭宿禰の祖で神知津彦と号す」とあって書紀と同様の説話がのせてあり、『姓氏録右京神別』には「青海の祖」とあり、『姓氏録摂津神別』には「大和連はその11代孫御物足尼の後、物忌置はその9世孫矢代宿禰の後」と出ている。

と、記載されています。
さらに、「神武天皇の御東征と椎根津彦(昭和15年 大分県北海部郡教育会 発行)」には、
 
 倭國造(大倭國造)の本據は、和名抄にある大和國山邊郡大和(おほやまと)郷、即ち今の奈良縣山邊郡朝和村の地方である。
 椎根津彦の裔は、大和直(大倭直)と青海首となった。
 大倭直の宗家は、のち連姓となったが、天武天皇の十四年六月二十日忌寸姓を賜はり、次で聖武天皇の天平九年十一月廿二日、更に宿禰姓となった。
 また青海首は、崇神天皇の御代、越後の久比岐(くびき)國造となり、後の頸城郡を本據とした。
 いま新潟縣南蒲原郡加茂町大字加茂に、椎根津彦を祭神とする縣社青海神社の鎮座するは、かゝる由緒からである。

と、記されています。

一方、椎根津彦の活躍ぶりについて、百嶋氏は講演会で、このように話されています(「肥後翁のblog」から転載)

丹後の宮津湾と阿蘇海(あそかい)の真ん中を仕切って通っているのが天の橋立です。
この天の橋立に引き切られたほうに阿蘇海に面した端っこにコノ神社があります。
同じ場所ですが、大江山いくのの道の遠ければ、まだ文も見ず天の橋立、この大江山には、皇大神宮ならぬ皇大神社があります。
これは皆さんほとんどご存じないと思いますが、九州王朝神霊東遷、九州王朝、背振山におられた九州王朝の神霊を、偉い方々が、担いで東に遷られる。
そして、どこに落ち着かれたかといいますと、その出発地はイズミ、九州王朝の本家本元はイズミ、これは背振山の最も佐賀市に近い割と平地、そこは高良山との関係が大変深いところです。
ほとんどの方がユダヤ系統の方です。はっきり、そこのお宮さん、ユダヤのお宮さんにお参りなさると、このお宮を守った人達は、丸、丸、丸を苗字として名乗っていらっしゃいます。その代表が玉屋の社長田中丸さんです。
そこの兄弟神社が、琵琶湖の比叡山の下に、厳島神社と同じ鳥居をもったお宮さんがあります。
猿田彦を祀ってあります。
この比叡山の下のお宮さんと、佐賀のいずみは兄弟です。
そして、ここ、佐賀のいずみから九州王朝は出発されまして、どのようなコースをお辿りになたかは判りませんが、船を利用されたことは判ります。
書いてあるから判ります。
どこに書いてあるかといえば、一番はっきりしているのは、京都の鞍馬寺の下のお宮さん、水の神様としてとても有名なお宮さん、とにかく鴨川の途中で髙何とか川に分かれた髙何とか川の終点です。
そこに行きますと、佐田大神の末のお子様を守った小さな祠があって、この神様、シイネツ彦神武天皇の、但し、この神武天皇は本当の神様ではなく、俗称神武、即ち、祟神天皇のカジトリとして大いに功績があったと書いてあります。
従って、お宮さんの名前はカジトリ社となっています。シイネツ彦、別のお名前をウズ彦、このウズ彦の銅像が先ほど言ったコノ神社にございます。
そして一方、大江山の方に、そっくりそのままのとてつもなく判りやすい伊勢皇大神宮が現存しています。
それは明らかに九州王朝神霊東遷の牙城のひとつです。
即ち、大江山の皇大神社には一々丁寧に伊勢皇大神宮の配置をはっきりと書いておられます。そこで、もらった資料には、どえらい記事が沢山あるのですが、どえらい記事の中にどえらい方がおられました。
ここにさっき、ミヅハノメノ神、竜神様と申し上げました。
もともとの春日大社のもともとの本当のご祭神はミヅハノメの神様、竜神さまと申し上げた。その方が、ちょこっと、イワノ姫としてもお名前を出されている。
イワノ姫は神代譜なんかで時々名前が出てきますが、ところが御素性が全くわかりません。
実は、ミヅハノメの神様を隠すために、偽の神代譜が、古事記・日本書紀によって出来たのです。
即ち、イワノ姫ミヅハノメの神なのです。
従って、そっち(偽の神代譜)にも配慮して、イワノ姫の名前も付けたしておられるというわけです。
このことを最もよく残しているお宮様が奥伊勢にあります。
影だけ残しています。
皇大神宮及び松阪の那の国の集落、両方から川を上ります。
伊勢皇大神宮のウジヤマダの五十鈴川から登ります。
片方(松坂)はクシダ川です。
両方ともそれが到達するところに奥伊勢があって、ここにミズヤ宮があります。
ミズヤ宮とは本当はここにあったのではない、奈良の春日大社、即ち、ミズヤ宮です。
春日大社と言い出したのはこのごろの事です。
古い時代の主ご祭神は竜神姫で、そのころ並んでいるご祭神名は何とか歴史に合う納得できる御神名が書かれていますが、戦後では、竜神姫は蹴落とされています。
春日の大神が主祭神になっています。
これは藤原がやったことです。
どの血統もいいこと悪いことをやっていますが、藤原も日本最大の悪をやっています。
とにかく、みんな悪いこともやり、いいこともやっています。
そう考えられれば罪がないです。

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つまり、椎根津彦は母親の鴨玉依姫らとともに九州王朝の神霊(天照神武天皇)をお護りして東遷を(西暦228年)を実現されたようですね。
この時、椎根津彦は31歳と資料に記されています。

こうした功績が認められて、椎根津彦倭彦となられたようですが、果たして、その後、日本大國魂大神として祀られたのでしょうか。
今ひとつ、はっきりしませんねぇ。


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百嶋系図ではその後、椎根津彦(贈)垂仁天皇(=生目入彦=宇佐ツ彦)の妹を后とし、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご)の二人のお子様をもうけられています。
の姉弟については、海女、黒砂 真砂の二神が速吸の瀬戸の海底から大蛸が守護してきた神剣を取り上げて天皇に奉献し、その神剣を御神体として天皇御自ら古宮の地に奉斎し建国の大請願をたてられたのが創祀である」と早吸日女神社の由緒にも登場しています。

椎根津彦は保久良神社(兵庫県神戸市東灘区)にも祀られており、おそらく、瀬戸内の西端から東端までの海路一帯を掌握していたのでしょう。
この椎根津彦神社は早吸日女神社の小野宮司が兼務されていますが、宮司の話では、当社地は椎根津彦生誕の場所ではないか、ということでした。

百嶋系図では、椎根津彦命鴨玉依姫(=早吸日女)の子供神であり、共に添うようにこの佐賀関に鎮座されていることなどから、そうかもしれないなぁ、と思いつつ、屋根に飾られている「上り亀」の神紋を今日も眺めるのでした。

丹羽基二著「神紋総覧(講談社)」に珍しい神紋として紹介されている
「上り亀」:椎根津彦が大亀に乗って現れたことに因んでいるという。
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境内からの佐賀関漁港
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【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】



Posted on 2017/10/03 Tue. 21:30 [edit]

category: 日記・古代史

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