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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

24.夜明け前のスケッチブック①「不動岩」(中津市耶馬溪町大字深耶馬) 


先日、深耶馬溪のモアイ像とも称されている「不動岩」まで出かけてきました。
宇佐市院内町から岳切渓谷(たっきりけいこく)を目指して出発。
目的地は耶馬溪町深耶馬 大城(だいしろ)。

途中、山陰の道路沿いには昼間でも解けきらない雪が所々、固まりとなって残っています。
岳切渓谷(たっきりけいこく)側から町道に入り、大城隧道を過ぎた辺りで車を駐めると左手に小高い丘を見つけることができます。

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この丘の上に不動尊像に似た巨石が載っかっていました。
どこか寂しそうにも見えますが、遙か彼方を見据えているかのようです。

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頂上まで続くクヌギ林を抜け、少しばかり息を切らしながら丘を登って行くと不動岩にたどり着くことができました。
それにしても奇巌怪石、確かに「モアイ像」にも似ています。

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不動岩周辺は耶馬溪溶結凝灰岩(高温の火山灰が大量に堆積し、その重さと高温のために圧縮されて粒子の一部が溶けてくっつき合い、溶岩状になった岩石)の広大な高原がつづいていて、さながら天然の要害のようです。

また、この付近は重要な祭祀場でもあったようです。
往古、ヒミコがこの地域一帯で活動していたと伝えられており、当然、この場所でも祈りをささげていたことでしょう。

さらに、もう一つ、気になることがあります。
「大城」という地名。
「だいしろ(たいしろ)」と読ませているため、かって、この地に大きな山城でもあったかのようですが、中津市教育委員会によると、そういった事実は無く、伝承なども残されていないとのことでした。
では何故に「だいしろ」と呼ばれてきたのでしょうか。

「だいしろ」を「台城」などど書けば、何やら幻の邪馬台国の姿がこの高台の地にじんわり浮かんでくるようですね。


Posted on 2018/02/27 Tue. 21:00 [edit]

category: 日記・古代史

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27

23.ウマシアシカビヒコヂを祀る霧島神社(大分県佐伯市直川)① 


藤井綏子(やすこ)氏の著書『古代幻想 豊後ノート』から、
 
 ところで天降ったニニギは、何を一番先にしたかというと、オオヤマズミ神の娘のコノハナサクヤヒメを妻にすることだった。これはつまり、天降ったそこには、すでにオオヤマズミをいただく集団が根を張っていて、新来の若者ニニギが土地に順化するには、その集団の長の娘の夫になることが必要だった、ということではあるまいか。そしてこのオオヤマズミ神の出自は、南九州なのである。この神の総本社として名高い瀬戸内海大三島の大山祇神社縁起によれば、神は別名を「吾田国主事勝国勝長狭命(あたくにぬしことかつくにかつながさのみこと)」といい、薩摩半島の地名「吾田」を名の頂きに持つ。それは娘のコノハナサクヤヒメも同じで、『記』によれば彼女は別名カムアタツヒメであった。ともかく南九州出自の神をいただく集団が、ニニギ到来時、九州島を北部に至るまで支配下に収めていたわけである。
 
 一体、ニニギが天降ったのは、『記』に見えるその時の物や用語から、弥生の稲作もある程度進んだ時期だったらしいとされている。その当時は、西北九州のみならず東北九州――豊後の洪積台地のあたりにも、オオヤマズミの勢力が浸透していた形跡がある。一例をあげると、この内陸部の一端庄内町には、オオヤマズミを祀る社が非常にたくさんある。平成の現在も多いが、明治に合祀や何やと整理される前は、夥しいまでの祀られ方だった。山間だから「山」を名に持つ神が祀られて当然、と思えるかもしれない。が、見逃せないのは、合併させられた神社中「求一郎社」の名を持つものが九社もあり、祭神は求一郎小一郎小市郎小一領古一霊などとも書かれる)あるいは「事勝国勝長狭神」とされていることだ。つまりこの神もオオヤマズミなのである。これと、山神社としてオオヤマズミを祀るものを併せると、明治前には何とこのささやかな山間部に、四十一ものオオヤマズミの社があったことになる。いにしえ、この地に深く深くオオヤマズミ勢力の浸透があったことの、これは残照とは言えはしないだろうか。

少し、引用が長くなりましたが、卓見ですねぇ。
この『古代幻想 豊後ノート』は、平易ですが、洗練された文章の中に鋭い見識が随所に垣間見られ、一点の絵画のようにいつまでも魅了させてくれます。

そして、百嶋神社考古学においても、オオヤマツミ集団が南九州に依拠していたと考えているのです。
古川氏もブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮) 『179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 ④ “西都原に大山祗命の痕跡がある!”』」でそのことに触れており、また、百嶋氏は、このことに関連して次のように述べています(「肥後翁のblog」から転載)。

そして、次、今度は熊襲について申し上げます。
(中略)
熊襲は誰のことかと申しますと、ズバリ申し上げまして、生目神社、生目神社、別の表現では生駒神社、奈良に生駒山というのがあるでしょう。あの山の麓に生駒神社がありまして、これは高木の大神の系統のものがこれを名乗っています。
とにかく、この生駒の前身である生目神社が全ての謎を知っておられます。
ところがですね、ここで高木の大神が一番偉いかと思ったら、さに非ず、とんでもない、その上がいるんです。
その上は誰かと申しますと、大国主のみことです。
そして、これは専門的に生目神社を説明するときに詳しいことはお話しまして、その熊襲の跡、熊襲を証明する跡がどこに残っているかということだけ今日は申し上げておきます。
それは、今の霧島神宮ではなくて、最初の霧島神宮は、現在の高千穂・高千穂といって威張っているところ、あそこの登り口のところに霧島神宮が、古い霧島神宮がありました。
そこにですね、東のその村、熊襲の村という意味です。
東のその村の大きな碑が残っています。そこが、東のその村。
そして、西のその村、こっちがはっきりしています。
どこにあったかと申しますと、鹿児島空港、溝辺町にあります。
この鹿児島空港の溝辺、そして、現在、高千穂の峯と言っているあの地区が熊襲の中心的な住宅地帯だったんです。
誰が住んでいたか?熊襲の長官、長官というのはありませんでしたが、中心人物は誰であったかかと申しますと大国主のみことのご先祖です。

百嶋系図では、大国主命の父は大山祇命であり、さらに大山祇命の父がウマシアシカビヒコヂ『古事記』では宇摩志阿斯訶備比古遅神、『日本書紀』では可美葦牙彦舅尊と表記)とされています。

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では、瀬戸内海・大三島の大山祇神社に鎮座する大山祇命や出雲大社の大国主命がどういった経緯で九州島を離れたのでしょうか。

古川氏のブログから、

ここから少しややこしい話をさせて頂きます。
そもそも大国主命を出雲国の人と考えておられる方が多いと思いますが、それは「古事記」神話が造ったトリックでしかありません。
元々、トルコ系匈奴の一派である大国主の一族は九州の南部に入っており、その痕跡が宮崎県と言うより日向国一宮 都農神社の祭神が表向き大国主命とされている事に象徴されており、薩摩の吾田、吹上浜は吹上温泉付近に堂々たる大巳貴神社がある事でも、また、その父親である大山祇月読尊)を祀る神社が鹿児島からフェリーで桜島に渡った正面に鎮座している事でも幾らか納得してもらえるかも知れません。
さらに言えば、鹿児島から宮崎県内に数多くの南方神社(祭神:建御名方 これも誤りですが、大国主の命の子とされていますね)もあるのです。

百嶋先生は、狗奴国の乱の後、列島大率家(周王朝、呉太伯の裔)である九州王朝からの協力要請を受け、大幡主命大山祇の一族が九州北部に移動していると言うのです。
北部九州に多い、隈地名もその際にそっくりそのまま移動してきたもので、日田の三隈川、隈、日隈、月隈、星隈地名から、朝倉、甘木一帯、佐賀市一帯、福岡市周辺…、当の隈本(熊本の加藤清正以前の表記)は千葉城町といったくだらない地名に変更されているのです。


その後、大山祇の一族は本拠地を愛媛(伊予二名)に移し越智氏となり(岡山の津山、吉井へも)、大幡主の一族は、阿波(阿波と言えば金毘羅さんですね)から紀州の熊野へと本拠地を移しているのです(岡山の高梁、湯原へも)。 
そして、俗に大国主の国譲りと言われるものも、多くの地域にあった出雲(飯塚市桂川町の出雲もその一例)を明渡し、移動して行った一つが現在の出雲であって国譲りの舞台の大半は九州だったのです。

言わば、引越し先に大きな社を造ってもらった所が現在の出雲大社であって、言わば「記」が捏造した神話のテーマパークでしかなかったのです。


この「
狗奴国の乱」は、
大山祇集団の長である大国主命が引き起こしたものとされています。
これらの状況が、
中国の複数の史書に記述が見られるいわゆる
倭国大乱(わこくたいらん
」に当たるとされています。
結局のところ、大国主命は父の大山祇命と共に乱の責任を取らされ、支配地域を鞍替えさせられたのですが、大山祇命においては、さらに「月読尊」という尊いお名前も取り上げられてしまったようですね。

百嶋神社考古学では大山祗命(=月読命)は金官伽耶のウマシアシカビヒコヂ金越智)と白族の白山姫(=天御中主)の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとしています。
現在では、このウマシアシカビヒコヂを祀る社は非常に少なく、出雲大社の奥深くの「客人(マロウド)の間」辺りでしか遭遇する機会が無いと云われています。
ですが、倭国大乱の頃は、赤城神社(群馬県前橋市:現在は祭神から外れている)を始めとして、多くの社に祀られていたようですね。

そして、このウマシアシカビヒコヂを祀る社が大分県南部の佐伯市直川の「霧島神社」に鎮座されているのです。
当社については、既に古川氏がブログ「ひぼろぎ逍遥『スポット073 可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)祀る大分県旧直川村の霧島神社』」で詳しく述べられています。
ここでは、その後の調査で判明したことや白山神社(祭神:白山姫 2社)、光神社(祭神:月読尊 2社)などの周辺に鎮座する神社の概要などと併せ、ボチボチとですが、紹介していきたいと思っています。

大分県南部を東進する番匠川の支流「久留須川」の流域に開けた直川
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日豊本線沿いの小高い山の裾野に鎮座
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拝殿
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拝殿と本殿を覆う素屋
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境内は広くはないが、手入れがキチンと行き届いている。
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拝殿-本殿
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本殿(宮司さんにも協力していただいて調査を実施)
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五三の桐紋は群馬の赤城神社と同様。
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菊紋も赤城神社と同様であり、繋がりの深さが感じられます。
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【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】

Posted on 2018/01/07 Sun. 21:00 [edit]

category: 日記・古代史

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22.【神武天皇伝承】椎根津彦神社(大分市佐賀関)と大和神社(奈良県天理市)② 

大和神社の宮司職は代々、椎根津彦の末裔が務めてきたとのことです。
そしてそれは、明治の初めまで続いていたようです。

椎根津彦の末裔と言えば、
在野の神社考古学研究家である百嶋由一郎氏は、講演会の中で、このように話されています。

「出石(いずし)神社(兵庫県豊岡市出石町)の宮司は、市磯長尾市いちしのながおち=真砂(まさご)=増御子(ますみこ))の子孫の長尾さんで、(祭神である)スサノオ(=天日槍(アメノヒボコ))をずうっとお護りし、1800年間、祀っていらっしゃる。」

市磯長尾市といえば、大和神社の由緒にも登場しています。
ウイキペディアでは、

『日本書紀』に伝わる古代日本の人物であり、倭直(倭氏)の遠祖である。
倭大国魂神(奈良県天理市の大和神社祭神)の起源譚で知られる。
『古事記』に記載はない。
さらに、
『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条によると、倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君ら3人は同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にすると必ず天下太平になると夢告があったと天皇に奏上した。
そこで崇神天皇7年11月8日、夢告の通りに大田田根子と長尾市とに祀らせると、疫病は収まって国内は鎮まったという(垂仁天皇25年3月条の「一云」でも同様)。
また同書垂仁天皇3年3月条では、「一云」として、三輪君祖の大友主とともに新羅から渡来した新羅皇子の天日槍を尋問するため、播磨に行くよう天皇から命じられたとある

なるほど、ここに市磯長尾市天日槍(=スサノヲ)が登場しています。
「市磯」の名称については、大和国十市郡の地名(奈良県桜井市池之内付近)のようです。
その後、市磯長尾市の子孫がそのまま播磨に留まり、天日槍を奉斉した出石神社の宮司となられたようですね。

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さらに百嶋氏は、

九州王朝神霊(神武、天照)東遷の大事業は椎根津彦を中心とした一団によって敢行されました。
神武は九州と奈良に、天照は九州と伊勢に安住の地を得られました。
その最後までご奉仕されたのは、椎根津彦の子、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご=市磯長尾市)でした。

とも述べられています。

考えを進めていくと、「日本大國魂大神」とは、単に神武懿徳孝霊孝元と続く、呉の太白「姫氏」の系統である「正統皇統」のことではなく、もちろんのこと椎根津彦でもなく、「神武天皇」の神霊、そのものではないかとの思いが一層、強くなってきました。
そして、椎根津彦親子が、それら東遷(西暦228年頃)に大きく貢献したということなのでしょう。
それから、百嶋系図では、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご=市磯長尾市)は椎根津彦ウサツ姫垂仁の妹)との子供とされています。
別の資料には「名目、垂仁の子」とも記されていました。


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摂社 増御子(ますみこ)神社
    祭神:市磯長尾市,猿田彦神,天鈿女命(あめのうずめ)
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摂社 高龗(たかおかみ)神社
    祭神:高龗神は百嶋系図では神沼河耳(大歳神の父)とされています。
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高龗神社 本殿
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末社 朝日神社 祭神:朝日豊明姫神
 百嶋氏は、宮地嶽神社の祭神である(藤 高麿)勝村大明神は朝日豊盛ノ命
(あさひとよさかり)ではないかと考えておられるようでした。
 朝日豊盛ノ命とこの朝日神社との関連が気になるところです。
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末社 厳島(いつくしま)神社 祭神:市杵島姫命
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末社 事代主神社 祭神:事代主神
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地元の方達の話では、ずっと昔、早吸日女神社境内入り口に建つ鳥居から港方向の地域は海だったいうことです。
鳥居近くまで、波が打ち寄せていたのでしょう。
そして、この地区には「黒砂(いさご)」、「真砂(まさご)」という字名が今も残されています。
由緒ある地名や古くから伝わる伝承を大切にし、しっかりと後世に残していただいていることに感謝です。

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地元の方達のお話では、鳥居近くまで海岸線が迫っていたいう。
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この鳥居近くの和菓子店。
九州王朝と関係の深い木瓜紋(もっこうもん)に惹かれます。
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特に、餅入りの方がお気に入りです。
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【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】


Posted on 2017/12/14 Thu. 22:00 [edit]

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