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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

25.ウマシアシカビヒコヂを祀る霧島神社(大分県佐伯市直川)② 

 霧島神社が鎮座する佐伯市直川には東九州自動車道の佐伯インターで降りてバイパスに入り、番匠大橋方向へと進みます。
 大橋の手前で国道10号線と合流するのですが、国道は佐伯駅方面から延びてきた日豊本線に誘われるように佐伯市入り口で大きく舵を西に切り宮崎県境へと向かい始めます。
 大橋を渡り、しばらく車を走らせると直川に入り、ほどなくして直見駅に到着です。
 ここから国道は番匠川の支流 久留須(くるす)川に沿って、鉄道と絡み合うように、急峻な宗太郎峠を一路、目指して行きます。

 直見駅を過ぎ緩やかな坂を越えると、霧島神社が鎮座する下直見地区です。
 神社は国道近くまで迫り出している平野山の中腹に位置し、山裾には一の鳥居が国道と線路に対峙するように建てられています。

鳥居の前を走り抜ける特急「ソニック」
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鎮座する平野山は古墳?
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いつごろの創建なのか、詳しい由緒は不明。
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貴重な資料を拝見させていただきました。
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 (旧)直川村は、直見村と川原木村の二村が合併し誕生したもので、名前もそのものズバリ、合わさっていますね。その後、直川村は南海部郡の他の町村とともに佐伯市と合併しています。

 それにしても、「直見(ナオミ)」の地名も気になりますねぇ。
 それは、この地に「霧島」と呼ばれる神社が何故、残されているのかと同じくらいに気になります。
 元来、「み」のつく地名は、「熱海」「渥美」と同じように「安曇(あずみ)族」との関係が深いのですが、大分県内でも宇佐市院内町の温見(ぬくみ=あつみ)や地名由来の元となった「安心院(あじむ)」などがよく知られています。そう言えば、佐伯市の隣は「津久見市」でした。「津久見」をおそらく、安曇族との関連が深いのではないでしょうか。

 (旧)直見村の「ナオミ」の地名の由来について、直川村誌(直川村誌編さん委員会 平成9年発行)には、豊後武士団の棟梁 緒方惟栄(おがたこれよし)らに追われた平家一門の光世・光国兄弟の説話(「大友興廃記」に記載)が紹介されています。
 これによれば、佐伯表から野を分け山を越えて逃避行を続ける兄弟が夜分、ソバの花が一面に咲く、真っ白なソバ畑を海と見間違い、光世が「なおうみ」かと問うたことから「猶海(なうみ)」と呼ばれるようになったとのことですが、本村誌の筆者自身、この説話には疑問を呈しています。
そうでしょうねぇ。
いくら手傷を負っていたとしても、また連続する戦で疲労困憊していたとしても、やはり、ソバ畑を海と見間違えることはないと思われますね。

一方、宇佐家伝承の口伝には、

神武東征の折、神武天皇がひきいる舟軍は、豊後水道から佐伯湾に入り、その沿岸ならびに番匠川の流域に駐留して、軍兵の休養と物資の補給をしようとしたが、直美(今の大分県南海部郡直川村)を拠点とし、タジヒナオミ多遅比直美)を首長とする菟狹族海部のはげしい抵抗にあって上陸できなかった。
そこへ、漁師のウヅヒコ珍彦)という者が菟狹族の宗主ウサツヒコに帰順を説得し、神武東征軍と折衝の結果、菟狹族の本拠に神武天皇を迎え、軍兵は宇佐川の流域に駐屯することとなった。

とあるようです。
 
 この口伝によれば、神武天皇も海部の湊にすんなりとは入港することができなかったようですね。そして、ここに登場する「タジヒ(多遅比=丹比=多治比)ナオミ」は菟狹族とのことですが、おそらく直見の地名のおこりと関係があると思われます。

 百嶋神社考古学では、神武東征の物語は(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとしていますが、大分県南部のリアス式海岸一帯には神武天皇に纏わる伝承が事細かに今も数多く残されており、「ウエツフミ」の中で記載されている内容と考え合わせると、タジヒナオミ」の存在はとても気になるところです(ブログNo1.神武天皇と金山彦尊をお祀りする佐伯市蒲江「伊勢本社」 参照)。

そして、「霧島」という社号。
「霧島山」の名称のおこりについては、いくつか説があるようです。
以下、「神々のやどる霧島山(森田清美 鉱脈社)」からの引用。

 第一説に、天孫降臨の時、霧が深いので物や色が分からなかったので、稲穂を投げ散らかしたら霧が晴れた。そのため霧島という。
 第二説に、皇孫が天降の時、島のように見える物があった。そこで天之瓊矛(あめのぬぼこ=天沼矛)でかき探り、そこに降り、天の逆矛を建てられた。そのことから霧島という名が出てきた。
 これに関連して、雲霧の都城の広野から高千穂峰の山腰(さんよう)を覆っている時、その中に二峰が現れ、浮いた島のようである。霧島の名はこれから出たともいう。『三国名勝図会(天保14年編纂)』巻之五十八「霧島嶽」の項に「当邑(都城郷)の地は、雲霧常に深く、朝夕山麓を擁し、其の平田沃野(へいでんよくや)、宛(あたか)も海の如し、因って雲海と号す、霧島の名も、是れより出づといへり」とある。これは、この第二説を補強する説である。
 第三説に、天孫が稲穂を取り払われたら、雲霧が晴れた。これより霧島の名が起こったという。しかし「図会」は、霧島という名は、それ以前からの名で、稲穂の縁で高千穂峰と呼ばれるようになった。旧称にそぐわないのではないかと述べる。
 このことについて本居宣長は『古事記伝』で、伊耶那岐命(伊弉諾尊)・伊耶那美命(伊弉冉尊)が天の浮橋より、霧の海を見下ろしたところ、島のようなものが見えた。そこに天沼矛でかきさぐり、そこに降りて、その矛を逆さまに立てた。霧島山というのは、ここに由緒があるのだと述べる。天孫降臨より、神代の古い時代から霧島の名があったのだという。しかし、実際に霧が深いところだということから霧島という名が 付けられたのだという説が有力である。
 (中略)
 霧島神は、大隅・薩摩から日向に勢力を伸ばした戦国大名島津氏が戦の神としてその霊威を高めていった。
 (中略)
 民間では、地域神として農神あるいは厄災を除く神、あるいは子供を守る神など多彩な信仰が展開されたいった。
 霧島山は火の山であると同時に、水の恵みを与える水分神(みくまりしん)でもある。各地に遙拝所や霧島塚などが設けられ、霧島講による代参講なども盛んになっていった。山麓の村や家では「霧島様」という山神や武神、祖霊神を祀っている所は多い。
 (中略)
 霧島山の信仰圏は広く、宮崎県や鹿児島県をはじめ、熊本県や大分県にまで及んでいる。

 それから、霧島には霧島山を囲むようにして、宮崎県と鹿児島県の県境に霧島六社権現と称される6つ神社(霧島神宮、霧島岑神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀。)、狭野神社、東霧島神社、霧島東神社が鎮座しています。この霧島六社権現は性空上人(しょうくうしょうにん(910年-1007年))と関係が深いことでも知られていますが、性空上人は霧島での修業のあと,湯布院,脊振山,英彦山でも修業されたと伝えられており、各地に霧島の名のつく神社が残されています。
 そう言えば、湯布院町には、性空上人が由布岳の山腹に庵を結び、岩に観音像を刻して祀ったとの伝承があり、関係する(と言っても、大元の佛山寺は地震で倒壊後、再建されたが火災で焼失。後に湯布院町川上に再建された。)お寺が今なお、残されているようです。また、同町川上の宇奈岐日女神社(六所宮)や塚原の霧島神社なども関係の深い聖地であったようです。

 因みに、宇奈岐日女(うなぐひめ)についてはウナギとは全く無関係であり、百嶋神社考古学では高木大神の御子、豊(速)秋ツ姫とされています(詳しくは古川氏のブログ「143 湯布院温泉と言えば宇奈岐日女神社 ③  “宇奈岐日女は高木大神の孫娘だった”」を参照してください)。

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「宇奈岐日女神社」
 現在、宇奈岐日女は祭神として名前を連ねていませんが、その昔、間違いなく
この地におられました。社殿は淑やかで品格があり、落ち着いた神社ですね。
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 結局、霧島の名は神代の古い時代からあったということですから、その名のおこりについて、あれこれと考えをめぐらせても、あまり意味がないということなのでしょうか。

 霧島は熊襲の拠点。
 百嶋氏も熊襲の中心人物は大国主の命のご先祖だと話されています。

 百嶋神社考古学では、大国主の父は大山祇神、そして祖父がウマシアシカビヒコヂ(金越智)、さらに遡れば、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王 金首露王にたどり着きます。

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 なるほど、直川・霧島神社の祭神ウマシアシカビヒコヂは熊襲の中心人物であったわけですが、だとすれば、「霧島神」とはウマシアシカビヒコヂ、あるいは、その祖神のことなのでしょうか?

 内倉武久氏の「熊襲は列島を席巻していた(2013年 ミネルヴァ書房)」によると、熊襲の意味について、「クマ」という言葉には「神」という意味があったと述べられています。故に、「熊」には「神聖な」という意味があったということです。
 中国でも古代から「熊」の字には動物のクマ以外に「あざやかに光るさま」を表現する言葉でもあったそうで、周代(紀元前1100年ごろ~前256年)の楚国の王や紀元前の呉(旬呉)の君主にも「熊」の字が入れられた名前がつけられていたようです。
 さらに、内倉氏は、「熊襲」は、本来であれば「熊曽於」と表記されるべきであり、その理由として「神聖な氏族・ソオ」の意味であるからと述べられています。

 今回、宮司とともにに氏子の方々にも協力していただき、古くから残されている貴重な資料などを拝見させていただきましたが、何故に「霧島」という社号がつけられたのかは残念ながら明らかにすることはできませんでしたし、当社と性空上人との関係も見出すことはできませんでした。
 一方、氏子の方のなかに、「曽宮」さんというお名前の方がおられ、代々、この地に住まわれ、今も地区のお世話役をされているということでした。おそらく、長い間、曽於の宮」である当社をお守りしてきたものと思われましたが、関係を示す資料や言い伝えなどは残されていないとのことでした。

 当社が鎮座する平野山の山頂付近にはかって「洞免寺」というお寺が建っていたとのことで、礎石が今も残されているようです。
 「霧島」と「洞免(あるいは堂免)」という地名については、セットで鹿児島県をはじめ、宮崎市内にも存在しています。何かしら、意味があるのでしょうか。此処らあたりが何かしらのヒントになるのかもしれませんねぇ。

 思うに往古、各地の霧島神社には「ウマシアシカビヒコヂ」などの大国主の祖神が「霧島神」として祀られていたのではないでしょうか。それが、韓神ということや、あるいは「狗奴国の乱」の影響もあったのでしょうか、次々と消されていったように感じられます。
 先のブログで紹介した群馬県の赤城神社もそのケースですが、大分市の「鉾神社」も旧称は「霧島大明神」といい、以前は霧島神を祀っていたようですね。
 
 祭神については、神社のパトロンなどの時の権力者や社会情勢によって、時勢のニーズに合った神々に上書きされてきたケースがとても多かったように思われます。
 
歌川国貞(三代目歌川豊国)「大社縁結図(たいしゃえんむすびず)」
神無月(旧暦10月)に出雲大社に集まった神々の姿を描いた浮世絵
(客人権現=ウマシアシカビヒコヂ)
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 次回からは、直川・霧島神社を取り巻く周辺の神社について、ボチボチとですが、紹介していこうと思っています


Posted on 2018/04/25 Wed. 23:00 [edit]

category: 日記・古代史

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24.夜明け前のスケッチブック①「不動岩」(中津市耶馬溪町大字深耶馬) 


先日、深耶馬溪のモアイ像とも称されている「不動岩」まで出かけてきました。
宇佐市院内町から岳切渓谷(たっきりけいこく)を目指して出発。
目的地は耶馬溪町深耶馬 大城(だいしろ)。

途中、山陰の道路沿いには昼間でも解けきらない雪が所々、固まりとなって残っています。
岳切渓谷(たっきりけいこく)側から町道に入り、大城隧道を過ぎた辺りで車を駐めると左手に小高い丘を見つけることができます。

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この丘の上に不動尊像に似た巨石が載っかっていました。
どこか寂しそうにも見えますが、遙か彼方を見据えているかのようです。

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頂上まで続くクヌギ林を抜け、少しばかり息を切らしながら丘を登って行くと不動岩にたどり着くことができました。
それにしても奇巌怪石、確かに「モアイ像」にも似ています。

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不動岩周辺は耶馬溪溶結凝灰岩(高温の火山灰が大量に堆積し、その重さと高温のために圧縮されて粒子の一部が溶けてくっつき合い、溶岩状になった岩石)の広大な高原がつづいていて、さながら天然の要害のようです。

また、この付近は重要な祭祀場でもあったようです。
往古、ヒミコがこの地域一帯で活動していたと伝えられており、当然、この場所でも祈りをささげていたことでしょう。

さらに、もう一つ、気になることがあります。
「大城」という地名。
「だいしろ(たいしろ)」と読ませているため、かって、この地に大きな山城でもあったかのようですが、中津市教育委員会によると、そういった事実は無く、伝承なども残されていないとのことでした。
では何故に「だいしろ」と呼ばれてきたのでしょうか。

「だいしろ」を「台城」などど書けば、何やら幻の邪馬台国の姿がこの高台の地にじんわり浮かんでくるようですね。


Posted on 2018/02/27 Tue. 21:00 [edit]

category: 日記・古代史

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23.ウマシアシカビヒコヂを祀る霧島神社(大分県佐伯市直川)① 


藤井綏子(やすこ)氏の著書『古代幻想 豊後ノート』から、
 
 ところで天降ったニニギは、何を一番先にしたかというと、オオヤマズミ神の娘のコノハナサクヤヒメを妻にすることだった。これはつまり、天降ったそこには、すでにオオヤマズミをいただく集団が根を張っていて、新来の若者ニニギが土地に順化するには、その集団の長の娘の夫になることが必要だった、ということではあるまいか。そしてこのオオヤマズミ神の出自は、南九州なのである。この神の総本社として名高い瀬戸内海大三島の大山祇神社縁起によれば、神は別名を「吾田国主事勝国勝長狭命(あたくにぬしことかつくにかつながさのみこと)」といい、薩摩半島の地名「吾田」を名の頂きに持つ。それは娘のコノハナサクヤヒメも同じで、『記』によれば彼女は別名カムアタツヒメであった。ともかく南九州出自の神をいただく集団が、ニニギ到来時、九州島を北部に至るまで支配下に収めていたわけである。
 
 一体、ニニギが天降ったのは、『記』に見えるその時の物や用語から、弥生の稲作もある程度進んだ時期だったらしいとされている。その当時は、西北九州のみならず東北九州――豊後の洪積台地のあたりにも、オオヤマズミの勢力が浸透していた形跡がある。一例をあげると、この内陸部の一端庄内町には、オオヤマズミを祀る社が非常にたくさんある。平成の現在も多いが、明治に合祀や何やと整理される前は、夥しいまでの祀られ方だった。山間だから「山」を名に持つ神が祀られて当然、と思えるかもしれない。が、見逃せないのは、合併させられた神社中「求一郎社」の名を持つものが九社もあり、祭神は求一郎小一郎小市郎小一領古一霊などとも書かれる)あるいは「事勝国勝長狭神」とされていることだ。つまりこの神もオオヤマズミなのである。これと、山神社としてオオヤマズミを祀るものを併せると、明治前には何とこのささやかな山間部に、四十一ものオオヤマズミの社があったことになる。いにしえ、この地に深く深くオオヤマズミ勢力の浸透があったことの、これは残照とは言えはしないだろうか。

少し、引用が長くなりましたが、卓見ですねぇ。
この『古代幻想 豊後ノート』は、平易ですが、洗練された文章の中に鋭い見識が随所に垣間見られ、一点の絵画のようにいつまでも魅了させてくれます。

そして、百嶋神社考古学においても、オオヤマツミ集団が南九州に依拠していたと考えているのです。
古川氏もブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮) 『179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 ④ “西都原に大山祗命の痕跡がある!”』」でそのことに触れており、また、百嶋氏は、このことに関連して次のように述べています(「肥後翁のblog」から転載)。

そして、次、今度は熊襲について申し上げます。
(中略)
熊襲は誰のことかと申しますと、ズバリ申し上げまして、生目神社、生目神社、別の表現では生駒神社、奈良に生駒山というのがあるでしょう。あの山の麓に生駒神社がありまして、これは高木の大神の系統のものがこれを名乗っています。
とにかく、この生駒の前身である生目神社が全ての謎を知っておられます。
ところがですね、ここで高木の大神が一番偉いかと思ったら、さに非ず、とんでもない、その上がいるんです。
その上は誰かと申しますと、大国主のみことです。
そして、これは専門的に生目神社を説明するときに詳しいことはお話しまして、その熊襲の跡、熊襲を証明する跡がどこに残っているかということだけ今日は申し上げておきます。
それは、今の霧島神宮ではなくて、最初の霧島神宮は、現在の高千穂・高千穂といって威張っているところ、あそこの登り口のところに霧島神宮が、古い霧島神宮がありました。
そこにですね、東のその村、熊襲の村という意味です。
東のその村の大きな碑が残っています。そこが、東のその村。
そして、西のその村、こっちがはっきりしています。
どこにあったかと申しますと、鹿児島空港、溝辺町にあります。
この鹿児島空港の溝辺、そして、現在、高千穂の峯と言っているあの地区が熊襲の中心的な住宅地帯だったんです。
誰が住んでいたか?熊襲の長官、長官というのはありませんでしたが、中心人物は誰であったかかと申しますと大国主のみことのご先祖です。

百嶋系図では、大国主命の父は大山祇命であり、さらに大山祇命の父がウマシアシカビヒコヂ『古事記』では宇摩志阿斯訶備比古遅神、『日本書紀』では可美葦牙彦舅尊と表記)とされています。

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では、瀬戸内海・大三島の大山祇神社に鎮座する大山祇命や出雲大社の大国主命がどういった経緯で九州島を離れたのでしょうか。

古川氏のブログから、

ここから少しややこしい話をさせて頂きます。
そもそも大国主命を出雲国の人と考えておられる方が多いと思いますが、それは「古事記」神話が造ったトリックでしかありません。
元々、トルコ系匈奴の一派である大国主の一族は九州の南部に入っており、その痕跡が宮崎県と言うより日向国一宮 都農神社の祭神が表向き大国主命とされている事に象徴されており、薩摩の吾田、吹上浜は吹上温泉付近に堂々たる大巳貴神社がある事でも、また、その父親である大山祇月読尊)を祀る神社が鹿児島からフェリーで桜島に渡った正面に鎮座している事でも幾らか納得してもらえるかも知れません。
さらに言えば、鹿児島から宮崎県内に数多くの南方神社(祭神:建御名方 これも誤りですが、大国主の命の子とされていますね)もあるのです。

百嶋先生は、狗奴国の乱の後、列島大率家(周王朝、呉太伯の裔)である九州王朝からの協力要請を受け、大幡主命大山祇の一族が九州北部に移動していると言うのです。
北部九州に多い、隈地名もその際にそっくりそのまま移動してきたもので、日田の三隈川、隈、日隈、月隈、星隈地名から、朝倉、甘木一帯、佐賀市一帯、福岡市周辺…、当の隈本(熊本の加藤清正以前の表記)は千葉城町といったくだらない地名に変更されているのです。


その後、大山祇の一族は本拠地を愛媛(伊予二名)に移し越智氏となり(岡山の津山、吉井へも)、大幡主の一族は、阿波(阿波と言えば金毘羅さんですね)から紀州の熊野へと本拠地を移しているのです(岡山の高梁、湯原へも)。 
そして、俗に大国主の国譲りと言われるものも、多くの地域にあった出雲(飯塚市桂川町の出雲もその一例)を明渡し、移動して行った一つが現在の出雲であって国譲りの舞台の大半は九州だったのです。

言わば、引越し先に大きな社を造ってもらった所が現在の出雲大社であって、言わば「記」が捏造した神話のテーマパークでしかなかったのです。


この「
狗奴国の乱」は、
大山祇集団の長である大国主命が引き起こしたものとされています。
これらの状況が、
中国の複数の史書に記述が見られるいわゆる
倭国大乱(わこくたいらん
」に当たるとされています。
結局のところ、大国主命は父の大山祇命と共に乱の責任を取らされ、支配地域を鞍替えさせられたのですが、大山祇命においては、さらに「月読尊」という尊いお名前も取り上げられてしまったようですね。

百嶋神社考古学では大山祗命(=月読命)は金官伽耶のウマシアシカビヒコヂ金越智)と白族の白山姫(=天御中主)の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとしています。
現在では、このウマシアシカビヒコヂを祀る社は非常に少なく、出雲大社の奥深くの「客人(マロウド)の間」辺りでしか遭遇する機会が無いと云われています。
ですが、倭国大乱の頃は、赤城神社(群馬県前橋市:現在は祭神から外れている)を始めとして、多くの社に祀られていたようですね。

そして、このウマシアシカビヒコヂを祀る社が大分県南部の佐伯市直川の「霧島神社」に鎮座されているのです。
当社については、既に古川氏がブログ「ひぼろぎ逍遥『スポット073 可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)祀る大分県旧直川村の霧島神社』」で詳しく述べられています。
ここでは、その後の調査で判明したことや白山神社(祭神:白山姫 2社)、光神社(祭神:月読尊 2社)などの周辺に鎮座する神社の概要などと併せ、ボチボチとですが、紹介していきたいと思っています。

大分県南部を東進する番匠川の支流「久留須川」の流域に開けた直川
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日豊本線沿いの小高い山の裾野に鎮座
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拝殿
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拝殿と本殿を覆う素屋
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境内は広くはないが、手入れがキチンと行き届いている。
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拝殿-本殿
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本殿(宮司さんにも協力していただいて調査を実施)
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五三の桐紋は群馬の赤城神社と同様。
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菊紋も赤城神社と同様であり、繋がりの深さが感じられます。
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【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】

Posted on 2018/01/07 Sun. 21:00 [edit]

category: 日記・古代史

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