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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

15.丹生の郷の神々③(大分市 屋山 八柱神社) 

その昔、豊後・丹生郷には丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)を祀る神社が三社、存在したと伝えられています。
「一の宮」は大分市宮河内 火振の「阿蘇社」、「二の宮」が大分市佐野の丹生神社,これらは既に紹介しましたね。
そして「三の宮」は定かではありませんが、大分市屋山に鎮座する「八柱神社」ではないか、と云われています。

境内入り口の鳥居と参道
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神門
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拝殿は千鳥破風唐破風付きの立派な造り
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拝殿屋根に施されている神紋(七曜紋)
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注連縄は両端が丁寧に、きちんと揃えられていました。
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拝殿入り口の扁額
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拝殿-申殿内
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千木は外削ぎ、鰹木は奇数(3本)で男神を表しています。
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見事な本殿の床組
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社伝によると、当社の創建は承和11年(875年)とされていますが、天正14年(1586年)、薩州勢が豊後に侵入した際に社殿や宝庫、古文書などが焼かれてしまったため、創設当時の状況は詳らかでないようです。

現在の祭神は、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のひとつ「神殿」にお祀りされている神々と同一とのことで、「神祇官八神(じんぎかんはっしん)」、「宮中八神(きゅうちゅうはっしん)」、「御巫八神(みかむなぎやはしらのかみ)」、「美保貴神(みほぎのかみ)」、「鎮魂八神(みたましづめやはしらのかみ)」などとよばれています。

「祭神」(Wikipedia参照)
 高皇産靈神(タカミムスビノカミ)
 神皇産靈神(カムミムスビノカミ
 魂留産靈神(タマツメムスビノカミ)
 生産靈神(イクムスビノカミ) 
 足産靈神(タルムスビノカミ) 
 大宮賣神(オホミヤノメノカミ) 
 事代主神(コトシロヌシノカミ) 
 御膳神(ミケツカミ)

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八柱神については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)「196 八島神社の衝撃 “山鹿市千田聖母宮摂社の八島神社”」で古川氏が解説されています。

始めの高皇産霊日神は高木大神、足皇産霊日神は不明、神皇産霊日神は博多の櫛田神社の大幡主、御食津神は伊勢の外宮の豊受大神、玉皇 産霊日神はもしかしたらヤタガラス=豊玉彦、事代主神は恵比寿、生皇産霊日神はもしかしたら生目=垂仁天皇?、大宮売神はもしかしたら金山彦?
 となりますが、これ以上は良く分かりません。

ただ、どうも九州王朝を支えた神々が並べられているようで、九州王朝が滅ぼした神々には思えません。
少なくとも蹴破りによって茂賀浦が失われた際の八匹の亀に象徴される先住者の海人族の痕跡ではないようなのです。
これ以上の推測は無意味と言うより害悪になりますのでやめておきますが、最後に少しヒントになるものを発見した事からご紹介しておきます。

それは「熊本県神社誌」(上米良純臣編著)です。これには、「往古この辺は茂賀浦と称する一帯の湖であったが、神功皇后朝鮮出兵の途につき香椎の宮にます(ママ)頃奇瑞あり、ここに八神を祀り戦勝を祈願せられたと伝える。」とあるのです。
とすると、ここに祀られていた(いる)のは、近畿大和朝廷の前に九州王朝を支えた神々であり、その意味での敗惨した神々になりそうです。

そこで神域を見ていると、注連縄が緩んでおり祠の扉が多少開いていた事から開帳させて見せて頂いたところ、中には剣唐花の神紋の描かれた服を着た神像が鎮座されていたのです。
剣唐花は高良玉垂命の本当の神紋であり、現在の高良大社の裏紋でもある木瓜紋は本来のものではなく実は臣下である祇園社のそれなのです。

そこまで分かると、ようやく正面の千田聖母宮との関係が見えて来たのでした。

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(古川氏ブログ「196 八島神社の衝撃 “山鹿市千田聖母宮摂社の八島神社”」から転載)


ここ、屋山地区は丹生川の支流「屋山川」に沿って南北に細長く続き、姫岳の裾まで奥深く切り入っています。
地形は起伏に富み、遠端である姫岳の裾野は屋山川の水源ともなっています。

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そして、この屋山の奥深くに、八柱神社の元宮があったと伝えられています。
この八柱神社は私にとって、とても謎めいたお宮の一つでもあるのです。

まず、由緒のこと。

この元宮が鎮座していた場所について
郷土史「佐尉郷(さいのさと)」には、

昔は本殿はゴンの山の山中の巨岩の上にあり、拝殿が上床、加志場、加比母登(カヒモト)にあり、村人は谷川をへだてて拝殿から参拝していた

さらに、

八柱の神は遠州池田から飛来したという伝説があります

と、誌されています。

ここ八柱神社についてはよく分からないところもあったので、現宮司の杉崎氏や「海部古墳資料館」の館長さんで坂ノ市の郷土史に詳しい栗野氏にもいろいろとお訊きしたところです。

まず、元宮の鎮座地、「加比母登(カヒモト)」については、「屋山の奥」とされているものの、場所の特定はできませんでした。
屋山の奥は姫岳の裾野にあたるので、おそらく、その辺りなんだろうと思われますけど…。

それから、「八柱の神は遠州池田から飛来したという伝説」。
そもそも、「遠州」とは静岡県の西部、都市名で言えば、浜松・磐田・袋井・掛川・菊川・御前崎周辺のことで、地図を見ると天竜川から大井川を挟んだ地域のようですね。

ネットで調べると、浜松市に「八柱神社」がありました。
ただ、この社は江戸時代までは、八柱神社神官・袴田家の邸内に在って八王子寺社と呼ばれていたようで、どうも今ひとつ繋がらないような気がします。

さらに調べてみると、
磐田市池田地区に鎮座する「天白神社」なるものが見つかりました。
「遠州池田」と繋がりそうな予感…。

磐田市観光協会によると、
天白神社の起源は、奈良時代の女帝 孝謙天皇の頃。鎮守は猿田彦命(サルタヒコノミコト)です
ということです。

一見、当社とは繋がらないかな、と思ったのですが、よく調べてみると、境内社にしっかり祀られていました。
当社の境内社には祭神として、保食大神(ウケモチノオオカミ=宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)猿田彦大神(サルタヒコノオオカミが祀られていました。
実に興味深いです。

境内社「稲荷神社」
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百嶋神社考古学では、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)は伊勢神宮外宮の主祭神、豊受大神のことであり、香春神社の主神である辛国息長大姫大目命カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト=天鈿女命(アメノウヅメノミコト))と同一とされています
そういえば、この天鈿女命は、前回紹介した丹生郷の一の宮「阿蘇社」の祭神としても祀られていましたね。
そして、猿田彦山幸彦のことであり、豊受大神(=辛国息長大姫大目命天鈿女命宇迦之御魂神)とは夫婦神なのです。

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スサノヲ神大市姫(=罔象女神ミヅハノメ))の御子である豊受大神(=辛国息長大姫大目命支那ツ姫天鈿女命)は海幸彦支那ツ彦大年神天児屋根)との結婚生活は短かったようですが、その後に結婚した山幸彦(=猿田彦)とは長く続いたとのことです。

百嶋先生の講演記録から豊受大神猿田彦とのお話です(「肥後翁のblog」から転載)。

そして今度は、最後に丸、これは瀬高、ここ筑後、ここは筑後です。
何で筑後かというと、現在の伊勢の外宮、そして稲荷様の女神様のからくりです。
この方の名前、大姫、大目姫と名前をいくつも書いています。
大姫のとき、この人の最初の旦那さんは海幸彦です。
そこで、今度は名前を大目姫にお代えになった。
この時の旦那様は猿田彦です。
これが瀬高の女山の女の神様を猿田彦が道をふさいで、実は塞いだのではなく、どうぞご案内申し上げますといって、九州王朝のほうにご案内申し上げた。
(中略)
そして、大目姫はウズメノミコト、ウヅメ姫です。
アメノウズメノのミコトが猿田彦に邪魔されたと思いきや、さにあらず、御案内申し上げますといって案内された。
その最初の旦那、海幸彦、そして、次の旦那、山幸彦、その分岐点がこの筑後の国、瀬高です。
そういうような歴史を持っているけれども、極秘極秘の度合いが過ぎてさっぱりわからないようになっているのが、それが瀬高の女山です。

つまり、境内社の稲荷神社に、夫婦で祀られているということですね。
そして丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)はスサノヲの姉、神俣姫のことですので、豊受大神は姪にあたることになるのでしたね。

その次に神紋
この地は江戸時代、佐賀関や野津原などとともに肥後熊本藩の飛び地だったとのことで、その藩主、肥後細川氏は九曜紋を使っており、当社の神紋と何か、関連があるのかもしれませんね。
、家紋Worldの「名字と家紋」で「七曜紋」を調べてみますと、

北極星の周りを巡る北斗七星を象った七曜があり、北斗星紋ともいわれ日・月・火・水・木・金・土を表したもので 妙見信仰から生まれたものだ。このように、星=曜は天体を変わらぬ規則で巡る星への信仰を形とし、信仰心、とくに 武家では武神として崇敬、みずからの家紋として用いるようになった。 

ということのようで、戦国時代に海の大名として名を馳せた九鬼氏、神社では兵庫県の名草(なぐさ)神社などが知られているようですね。

ただ、私が神紋で気になったのは、「剣花菱」紋なのです。
拝殿-申殿内にかけられている幕に、「剣花菱」が描かれていたのです。

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杉崎宮司の話では、この紋は杉崎家の家紋とのことでした。
剣花菱紋は本殿の床下に保管されていた瓦にもありましたし、別の瓦には十六菊紋も見つけることができました。
さらに本殿は実に見事な彫り物で飾られているのですが、この横面にも剣花菱紋が施されていました。

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杉崎家は天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖とし、初代 重秀 氏が元久2年(1205年)に宮司職となってから、現在で24代目とのことです。
初代は、神社草創期から350年ほど経過していますね。

天児屋根命についてウィキペディアから引用しますと、

春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも呼ぶ。
岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。
天孫降臨の際、瓊瓊杵尊に随伴し、古事記には中臣連の祖となったとある。 
名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。

また、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の古川氏は、

これも百嶋神社考古学では明確で、この天児屋根命とは阿蘇の草部吉見神=ヒコヤイミミであり、それは、通説による表向きの解釈は確かにその通りなのですが、実はそれには大きな舞台裏があるのです。

まず、古代は母系制社会だったためか、有力な先住民族(氏族)への入婿として何波にも亘る外来(渡来)民族(氏族)の侵入を受け容れ、その有力者との政略結婚を繰り返してきたのです。

  春日大神が何者かについても説明が必要ですが、奈良の春日大社とは藤原不比等が平城京移転に合わせ、自らの権勢を長らえるために、常陸の鹿島大社から剣豪 塚原卜伝が信奉した武甕槌神(実体は秘密に近く全く知られていませんが、阿蘇草部吉見神=ヒコヤイミミなのです)を勧請し自らの氏族の守護神=軍神とした のです。

これも、春日大神と天児屋根命を別神としていることが単なる神社伝承の混乱なのかそれとも裏事情を知っての事なのかが気になるところです。

 何故ならば、奈良の春日大社の奥には水屋神社なるものがあり、草部吉見神の妃でもあった韓国息長大姫大目命を祀るなら分かるのですが、本当は、その母神である(父神はスサノウ)神大市姫=弥都波能売神(罔象女神)を祀っている事から、そのような裏事情を知ってのものとすることもできるのです。
(ひぼろぎ逍遥(跡宮)「172 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 ⑥天照宮(宮若市)」から転載)

と述べられています。

百嶋神社考古学では、天児屋根命とは海幸彦であり、支那ツ彦や大年神と同一なのです。
ただ、剣花菱紋との関係は不明でした。

神社横手の鳥居
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幹線道路に面した神社入り口から、石段を登り詰めた境内は思いのほか広くて明るく、とても綺麗に整備されていました。
宮司夫妻も、とても気さくで、突然の訪問にも親切に対応していただきましたし、さらに家系図の写しまで拝見させていただくなど、恐縮至極でした。

思うに、当社は、丹生都姫の姪にあたる保食大神(=宇迦之御魂神=辛国息長大姫大目命=天鈿女命=豊受大神)が猿田彦大神(=山幸彦=彦火々出見=五十猛)とともに夫婦神として祀られている境内社が重要な意味を持っているのではないでしょうか。

それは、八柱の神々や剣花菱紋とともに、九州王朝との繋がりを暗示しているのかもしれませんね。

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【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
   ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/

Posted on 2016/12/28 Wed. 20:47 [edit]

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14.丹生の郷の神々②(大分市 宮河内 火振 阿蘇社) 


ここ「阿蘇社」はイチョウの木の黄葉が素晴らしく、毎年、秋には境内が黄金色に包まれます。
大分の隠れた黄葉スポットの1つなのです。

今年の燃えあがりようはいかがなものかと先日、訪ねてみましたが、気温が比較的高かった日が多かったためか、イチョウの木々の葉には緑色の部分もチラホラで、今ひとつの染まり具合でした。

ただ、新嘗祭が執り行われる日に当たっていたようで、思いがけず、厳かな神事に立ち会うことができました。


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当神社は丹生郷の「一の宮」。

その昔、豊後・丹生郷には丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)を祀る神社が3社存在したと伝えられています。
当社はその「一の宮」と考えられていて、「二の宮」が丹生神社,「三の宮」は定かではありませんが、近くの屋山に鎮座する八柱神社、あるいは日吉神社ではないか、と云われています。
 
応永元年(1394年)、大友十代当主親世公が家臣に命じ、阿蘇神社の祭神を迎え、一の宮、二の宮、三の宮を造営。
さらに、「二の宮」の丹生神社では丹生大明神と合祀し「丹生二ノ宮大明神」として祀ったとのことで、この折、当社にも阿蘇神社の祭神が勧請されたようです。
また、当社の元宮は、ここ火振の地から1㎞ほど離れた阿蘇入(にゅう)地区に鎮座されていたとも伝えられています。
阿蘇入の「入(にゅう)」については丹生が転じたもので、以前は「阿蘇丹生」、あるいは単に「丹生神社」と呼ばれていたのかもしれませんね。

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神社明細帳によると当社の祭神は、健磐龍命(タケイワタツノミコト)、天鈿女命(アメノウズメノミコト)、大雷神菅原神の4柱。
伝えられているとおり、健磐龍命天鈿女命の2神は阿蘇入に鎮座されていたと記されています。
また、大雷神菅原神は近くに祀られていたものを、明治18年に、先の2神とともに、この火振の地に合祀されたようです。

氏子総代さんの案内で、素屋の中に鎮座する本殿や本殿の修復時に発見された棟札なども拝見さていただきました。

拝殿と本殿が鎮座する「素屋」
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「丸に違い鷹の羽」の神紋
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拝殿に掲げられている神額には「一宮大明神」の文字
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「素屋」内に鎮座する本殿
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風雨や日射しに晒されていないためか、未だ鮮やかな本殿の彫り物
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本殿屋根(千木は外削ぎ(男神)でしたが、鰹木は2本で偶数(女神)でした)
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健磐龍命(タケイワタツノミコト=手研耳(タケシミミ))肥後国一宮「阿蘇神社」の主祭神として有名ですよね。
百嶋系図では、神沼河耳(=高龗神(タカオカミノカミ)(贈)綏靖天皇)とカマチ姫(=アイラツ姫=神武天皇の后であったが、後に多氏の神沼河耳と通婚)との御子となっています。


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また、天鈿女命(アメノウズメノミコト)については、ウイキペディアによると、

日本神話に登場する神。「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。
『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する

と記載されいますが、
百嶋系図では天鈿女命


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前回、丹生の郷の「二の宮」として紹介した「丹生神社」の主祭神、罔象賣神(ミヅハノメノカミ=神大市姫)とスサノヲの御子である辛国息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト=福岡県田川郡香春町の主祭神=豊受大神(伊勢神宮外宮様))のこととされています。

先の丹生神社で境内社「稲荷社」の祭神として祀られている宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)とも同一神です。


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そして、丹生の郷の守護神、丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)とはスサノヲの姉である神俣姫のこととされています。
この神俣姫(=闇龗神(クラオカミ))は、多氏一族の神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト=高龗神(タカオカミ)(贈)綏靖天皇)と通婚し、草部吉見(=天忍穂耳尊=天児屋根=大年神=支那ツ彦=海幸彦)をお生みになられています。
つまり、天鈿女命(=豊受大神辛国息長大姫大目命=宇迦之御魂神=支那ツ姫)の母神が罔象賣神(ミヅハノメノカミ=神大市姫)であり、伯母に当たられる神が丹生都比売命(=神俣姫)なのです。

当時は政略結婚が盛んで、その都度、御名前も替えられていたようですね。
そのためか、神々の系図はジグソーパズルのように複雑なものになっていますねぇ。

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当社の元宮は阿蘇入地区入り口の山肌に張り付くように鎮座されていました。
元社の山すそは「迫阿蘇入」と呼ばれていて、一帯には勾玉や金の指輪、そして刀剣などが出土した横穴古墳が数多く見つかっています。

平成27年に発行された「ふるさと川添の郷土史」によると、この地域には古墳が20基ほどあるそうで、1700年前に豪族が住んでいたと思われると述べていますねぇ。 

山肌に張り付くように鎮座する阿蘇元社
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今なお、地区の人々に大切に祀られているようですね。
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そして近くには「阿蘇入(あそにゅう)神社」が鎮座していました。

阿蘇入神社」は小高い山の中、迫り来る新興住宅地を避けるように、住宅地の縁の「迫ノ平」にひっそりと佇んでいました。
社殿は西を向き、その正面にはきちんとした参道も無く、住宅地からの細い参道が社殿後ろに通されているだけでした。
そのせいか、元宮は何となくそっぽを向いているように感じられ、正面の林からは大野川の川岸が途切れ途切れに見通せるのみで一見して寂しそうでしたが、境内や社殿内はよく手入れされていて、地区の人々から大切に祀られている様子をうかがい知ることができました。

この阿蘇入神社には、金刀比羅社として大物主命(=大山咋(おおやまくい))、そして今宮社として事代主命がそれぞれ、祀られていました。

住宅地から社殿に向かう参道
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何となく、「敬神崇祖」という言葉が浮かんできました。
両社とも、長い間、村人に大切に護られ、そして丁寧に祀られ続けられてきたことに清々しい感動を覚えた次第です。

ゆっくりと朝日に照らし出される丹生郷宮河内の山々
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【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
   ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/

Posted on 2016/11/26 Sat. 14:47 [edit]

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13.丹生の郷の神々①(大分市 佐野 丹生神社) 

今年の春、大分市佐野に鎮座する丹生神社を訪ねた時のことです。
何かとお忙しい中、宮司の杉崎氏には時間を割いていただき、かなり長時間、いろいろとお話を伺うことができました。
そして帰り際、ナント、すっかり長居をしてしまった私に、「神紋と同じ形の落雁ですよ」と言いながら、にこやかに、ご神饌と書かれた包みを手渡してくれました。
驚きながらも、ありがたく頂戴し神社を後にした次第です。

以来、この丹生神社が大好きです。

神紋「行者輪宝」を象った落雁
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『豊後国風土記』や『和名類聚抄によると、豊後国は8郡を擁し、そのうちのひとつに「海部郡(あまべのこおり)」があったとのことで、海人が多く住んでいたため、そう名付けられたようです。
海部郡には、佐加(さか)、穂門(ほと)、佐井(さい)、丹生(にう)、日田、在田、夜開、曰理、叉連、石井の10郷があったと記されているようですが、実際には、佐加、穂門、佐井、丹生の4郷が海部郡に属し、他は日田郡に属していたと考えられています。
丹生郷は大分市東部から臼杵市にかけての広大な地域だったのですが、平安時代に臼杵川流域の開発が進んだため、丹生荘と臼杵荘に分かれたようです。

大分市HPから、この丹生地域が含まれる坂ノ市地区の説明を引用します。

坂ノ市地区は大分市の東部に位置し、東は佐賀関に接し、南に白山、九六位山系を擁し、西に丹生台地、北に別府湾を臨んでいます。
中央部には、丹生川、尾田川、金道川などの小河川が流れ、山地、丘陵、平野と変化に富んだ地勢を持ち、気候も温暖で生活しやすい土地柄となっています。
また、旧石器時代の「丹生遺跡」や大分県で最も大きな「亀塚古墳」、1400年の伝統を誇る「萬弘寺の市」など古代からの歴史を物語る史跡の豊かな地域でもあります。

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確かにここ一帯は大分県内でも有数の古墳遺跡地帯で、近くに岡遺跡(弥生時代)や延命寺遺跡(縄文時代)などもあり、さらに、丹生川と大野川に挟まれた丘陵地には前方後円墳3基、円墳7基が確認された「野間古墳群(古墳中期?)」が存在しています。

全国の丹生の名の付く地は古代の水銀産出と関連があり、それは中央構造線(メディアンライン)に沿っているという説が広く定着しています。
古代の「朱」については、水銀朱(硫化水銀=辰砂など)、ベンガラ弁柄,紅殻=酸化鉄赤)、鉛丹(鉛の酸化物)の3種類が知られており、前2者が最も普及した顔料である(要旨 日本古代朱の研究(市毛 勲))とのことです。

そして、水銀(辰砂)採鉱の技術を持って、全国の水銀産地に植民、あるいは水銀採鉱集団を部民として配下におさめ、水銀の管理と「丹生都比賣」の祭祀を一手に握った氏族が丹生氏だったようですね。

往古、丹生氏一族がこの一帯を闊歩していたのでしょうか。

ただ、現在では「丹生姓」を名乗る人達は、この地域にはほとんど見られず、隣接する臼杵市に近い山間部などの限局した地域に居住されているようです。

水銀鉱山は大きな鉱脈をつくりにくく、当時の技術では長期にわたっての採掘が難しいため、丹生氏は基本的に、辰砂を求めて移動せざるを得ない技術集団だったようですね。
なので、新たな鉱脈へと移動したか、あるいは農作へと生業を替えていったのでしょう。

18世紀後半、岡藩士の唐橋世済によって書かれた「豊後国志」によると、この丹生郷の地には3社(一の宮~三の宮)の丹生神社があったようですが、現在まで社名が残されている社は、当神社(二ノ宮)のみとなっています。

神橋から臨む参道
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境内入り口の鳥居と随神門
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随神門
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拝殿
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拝殿-申殿内
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拝殿屋根の行者輪宝紋
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渡殿-本殿 
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神社資料から、由緒の一部を抜粋してみましょう。

社伝によると、西暦698年(白鳳時代)9月、丹生郷の人々が五穀豊饒は水神様の御威徳によるものと崇敬し、罔象賣神(みづはのめのかみ)を丹生大明神として祀りました(当時は古宮という。現在の観音堂の場所)。

その後、西暦1196年(鎌倉初期)大友氏が豊後に下る途中、大在井(現 大在)沖で台風に遭い、船が難破しそうになった時、丹生大明神が現れ難を逃れて無事上陸を果たしたため、翌年、社殿を造営し御社田一反余と宝物(弓、矢、太刀)を寄進して、災難除けの祈念をし、後に社殿の近く(現 社務所)に恵日山来迎寺を建て、社僧を置き宮守りとしました。

西暦1335年頃(建武年間)、足利尊氏公九州下向の時、参拝祈願して田地を寄進。

西暦1394年(室町初期)9月29日、大友10代当主親世公が阿蘇大社の御祭神 建岩龍命(たけいわたつのみこと)を迎え、一ノ宮を美谷川内(現 宮河内)に、二ノ宮を佐野山(現在地)に、三ノ宮を毛井村(現 屋山)に造営し、当社二ノ宮は丹生大明神と合祀したので、以来、丹生二ノ宮大明神といい、大友氏累代の崇敬は殊の外に篤く田地を寄進し、当時は丹生郷から大在、小佐井、川添、高田まで本社の氏子で、大在と一木の境に大鳥居(現 鳥居場)を建て参道として大いに賑わい、これより9月29日を御神幸祭として現在に至っています。

現在の祭神は、罔象賣神(みづはのめのかみ)と建岩龍命(たけいわたつのみこと)とされていますが、明治期に作製された神社明細帳には、祭神は「水神」とだけ記載されています。
そして、境内社として、稲荷社(祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ))と金刀比羅社(祭神:大物主命)の2社が誌されています。
このうち、金刀比羅社は近くに鎮座していたものを後に勧請し祀ったようですが、稲荷社の宇迦之御魂神については、水神と同様に由緒不詳となっています。

罔象賣神についてWikipediaでは、
ミヅハノメは、日本神話に登場する神である。
『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。
淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
と説明されています。

百嶋系図では、罔象賣神(=神大市姫)はトルコ系の匈奴の流れを汲む大山祇(=月読命)と大幡主の実の妹である埴安姫草野姫)との御子であり、また、稲荷社の宇迦之御魂神とは伊勢の外宮様(=豊受大神辛国息長大姫大目命のことで、罔象賣神スサノオの間にお生まれになっています。
つまり、この丹生神社では、母娘神が静かに寄り添うように鎮座されている、そういったところでしょうか。

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ミヅハノメの神について、百嶋先生は、このように述べられています(「肥後翁のblog」から転載)

熊本白川水源に白川吉見神社がある。
これは、表には春日大神を祀ると書いてあるが、このお宮は、ミヅハノメの神を祀ると書いてあります。
このミヅハノメの神が奈良の春日大社のもう一つ上の祭神です。
こちらが龍神姫です。
丹生川上神社上社、中社、下社とありますが、本当の龍神様はこのミヅハノメの神、同一の神様です。
このお嬢様が、伊勢の外宮様の姫大神です。

また、別の講演では、

豊玉彦の働きは非常に大きかったが、隠れてなかなか表にお出になっていない。
その代表が吉野の丹生川上神社、表に罔象賣神を立てていらっしゃる、実際の御祭神は豊玉彦。

ともお話されています。

それから、神紋の輪宝紋については、いつ頃から使われてきたのかは不明でした。
輪宝紋についての説明を「神紋総覧」(丹羽基二)から引用しますね。

輪宝はリンボウと濁って訓む。仏具。もと、古代インドで、転輪聖王が破邪の武器として使用。戦野をこの輪が進めば、悪魔の軍勢はたちまちにして敗戦したという。
日本では、仏法具現のシンボルとして寺院でこの印を用いた。ことに、聖護院派の修験道場ではこの紋を大切にしている。
従ってふつう神社では用いないが、神仏習合の風潮がすすむにつれて流用された。

どうやら、神紋としては多くないようで、「行者」輪宝となれば、さらに少ないようですね。
宮守りとして建てられた来迎寺と何かしら関係があるのかもしれませんが、どうでしょうか。

社務所前の恵日山 来迎寺 跡碑
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申殿内の神額
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「朱沙」:社地に祀られている原石  
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観音堂と丹生大明神元宮跡碑
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観音堂:寛政2年(1790年)、臼杵藩主稲葉公に願い出て丹生郷の村民安穏成就を祈願し、二ノ宮大明神の氏子中が観音石仏三十三体を寄進。西国三十三ヶ所石仏観音として、丹生大明神元宮跡に建立したとのことです。
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境内社 稲荷社:丹生神社の旧本殿。古風で豪華な装飾によって埋め尽くされている旧本殿は,寛文6年に建造されたもの。
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脇障子の彫刻 狛犬
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脇障子の彫刻 鷲
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先日、ふと思い立ち、再び丹生神社を訪ねました。
七五三などの準備で忙しい中、ご無理を申し上げ、時間を作っていただいたのですが、杉崎宮司はこの日もさわやかな笑顔で社務所に招き入れてくれました。

当社では、地域と一体となった青少年の育成活動にも力を注いでいるようです。
神輿の担ぎ手は担当となった地区の氏子だけが、その年に担ぐことができるようになっているとのことですが、担ぎ手が5地区に割り振られているため、氏子は5年ごとにしか神輿を担ぐことができません。
この5年間はやはり長いみたいで、特に子供にとっては間が開きすぎるようですね。
小学1年生で担ぐと、次は6年生ですからねぇ。
そこで当社では子供神輿を創設し、子供たちには毎年、担いでもらっているようです。
地方の神社が徐々に衰退していく中、こういった取組はとても大事だなぁと感じ入った次第です。

神輿は県内でも大きな部類に入るようです。
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日本の朱砂が初めて記録の上に示されたのは「魏志」の倭人伝のようですが、日本人が記録したものとしては「豊後風土記」が第一に挙げられるそうです。
續日本紀」文武天皇2年の条に「豊後国の真朱(純粋な赤土:硫化水銀)」と記述され、伊勢の丹生と肩を並べて断然光っていたようです。

松田壽男氏の「丹生の研究」にも、古文献の記述、丹生神社の存在、神社境内やその周辺の土壌からの水銀イオンの検出、丹生姓を名乗る居住者の存在などから、豊後の丹生郷は古代、辰砂の一大産地であったと記述されています。

しかしながら、「古代朝鮮文化を考える会」のメンバーである高坂孟承氏は、この丹生の一帯は辰砂というよりも、ベンガラ(弁柄,紅殻=酸化鉄赤)の生産が主体ではなかったかと、同会報に寄稿されている「丹生郷の朱と野間古墳群の被葬者」の中で述べられています。
また、先に紹介した野間古墳群の被葬者については、ベンガラの生産で富を得て丹生平野を支配していた海人とは別の集団で、丹生氏とも違う渡来系の氏族の首長とそれにつながる人々ではないかと推察しています。

その理由については幾つか述べられていますが、その1つに、この丹生地区から7~8㎞ほど北東方向に離れた、神崎地区に存在する築山古墳から大量に出土した「朱」を挙げています。
この「朱」を分析した結果、主たる成分はベンガラだったようです。
丹生の地やその周辺の地は鉄分を多く含み、酸化鉄が豊富に存在したことも間違いないようであり、この丹生からのベンガラが埋葬時に使用されたのではないか(古墳製造時期の差にやや問題があるものの)と述べられています。

「築山古墳」…。
Wikipediaによると5世紀代(古墳時代中期)の前方後円墳とのことです。
築山 → つきやま → 月山?
そう言えば、罔象賣神の父神は月読命(=大山祇)でしたね。
何か、通じるものがあるのでしょうか?

いやぁ、丹生の郷の神々も古代へのロマンをかき立ててくれますねぇ。


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【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
   ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/



Posted on 2016/11/13 Sun. 19:02 [edit]

category: 日記・古代史

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