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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

13.丹生の郷の神々①(大分市 佐野 丹生神社) 

今年の春、大分市佐野に鎮座する丹生神社を訪ねた時のことです。
何かとお忙しい中、宮司の杉崎氏には時間を割いていただき、かなり長時間、いろいろとお話を伺うことができました。
そして帰り際、ナント、すっかり長居をしてしまった私に、「神紋と同じ形の落雁ですよ」と言いながら、にこやかに、ご神饌と書かれた包みを手渡してくれました。
驚きながらも、ありがたく頂戴し神社を後にした次第です。

以来、この丹生神社が大好きです。

神紋「行者輪宝」を象った落雁
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『豊後国風土記』や『和名類聚抄によると、豊後国は8郡を擁し、そのうちのひとつに「海部郡(あまべのこおり)」があったとのことで、海人が多く住んでいたため、そう名付けられたようです。
海部郡には、佐加(さか)、穂門(ほと)、佐井(さい)、丹生(にう)、日田、在田、夜開、曰理、叉連、石井の10郷があったと記されているようですが、実際には、佐加、穂門、佐井、丹生の4郷が海部郡に属し、他は日田郡に属していたと考えられています。
丹生郷は大分市東部から臼杵市にかけての広大な地域だったのですが、平安時代に臼杵川流域の開発が進んだため、丹生荘と臼杵荘に分かれたようです。

大分市HPから、この丹生地域が含まれる坂ノ市地区の説明を引用します。

坂ノ市地区は大分市の東部に位置し、東は佐賀関に接し、南に白山、九六位山系を擁し、西に丹生台地、北に別府湾を臨んでいます。
中央部には、丹生川、尾田川、金道川などの小河川が流れ、山地、丘陵、平野と変化に富んだ地勢を持ち、気候も温暖で生活しやすい土地柄となっています。
また、旧石器時代の「丹生遺跡」や大分県で最も大きな「亀塚古墳」、1400年の伝統を誇る「萬弘寺の市」など古代からの歴史を物語る史跡の豊かな地域でもあります。

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確かにここ一帯は大分県内でも有数の古墳遺跡地帯で、近くに岡遺跡(弥生時代)や延命寺遺跡(縄文時代)などもあり、さらに、丹生川と大野川に挟まれた丘陵地には前方後円墳3基、円墳7基が確認された「野間古墳群(古墳中期?)」が存在しています。

全国の丹生の名の付く地は古代の水銀産出と関連があり、それは中央構造線(メディアンライン)に沿っているという説が広く定着しています。
古代の「朱」については、水銀朱(硫化水銀=辰砂など)、ベンガラ弁柄,紅殻=酸化鉄赤)、鉛丹(鉛の酸化物)の3種類が知られており、前2者が最も普及した顔料である(要旨 日本古代朱の研究(市毛 勲))とのことです。

そして、水銀(辰砂)採鉱の技術を持って、全国の水銀産地に植民、あるいは水銀採鉱集団を部民として配下におさめ、水銀の管理と「丹生都比賣」の祭祀を一手に握った氏族が丹生氏だったようですね。

往古、丹生氏一族がこの一帯を闊歩していたのでしょうか。

ただ、現在では「丹生姓」を名乗る人達は、この地域にはほとんど見られず、隣接する臼杵市に近い山間部などの限局した地域に居住されているようです。

水銀鉱山は大きな鉱脈をつくりにくく、当時の技術では長期にわたっての採掘が難しいため、丹生氏は基本的に、辰砂を求めて移動せざるを得ない技術集団だったようですね。
なので、新たな鉱脈へと移動したか、あるいは農作へと生業を替えていったのでしょう。

18世紀後半、岡藩士の唐橋世済によって書かれた「豊後国志」によると、この丹生郷の地には3社(一の宮~三の宮)の丹生神社があったようですが、現在まで社名が残されている社は、当神社(二ノ宮)のみとなっています。

神橋から臨む参道
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境内入り口の鳥居と随神門
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随神門
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拝殿
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拝殿-申殿内
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拝殿屋根の行者輪宝紋
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渡殿-本殿 
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神社資料から、由緒の一部を抜粋してみましょう。

社伝によると、西暦698年(白鳳時代)9月、丹生郷の人々が五穀豊饒は水神様の御威徳によるものと崇敬し、罔象賣神(みづはのめのかみ)を丹生大明神として祀りました(当時は古宮という。現在の観音堂の場所)。

その後、西暦1196年(鎌倉初期)大友氏が豊後に下る途中、大在井(現 大在)沖で台風に遭い、船が難破しそうになった時、丹生大明神が現れ難を逃れて無事上陸を果たしたため、翌年、社殿を造営し御社田一反余と宝物(弓、矢、太刀)を寄進して、災難除けの祈念をし、後に社殿の近く(現 社務所)に恵日山来迎寺を建て、社僧を置き宮守りとしました。

西暦1335年頃(建武年間)、足利尊氏公九州下向の時、参拝祈願して田地を寄進。

西暦1394年(室町初期)9月29日、大友10代当主親世公が阿蘇大社の御祭神 建岩龍命(たけいわたつのみこと)を迎え、一ノ宮を美谷川内(現 宮河内)に、二ノ宮を佐野山(現在地)に、三ノ宮を毛井村(現 屋山)に造営し、当社二ノ宮は丹生大明神と合祀したので、以来、丹生二ノ宮大明神といい、大友氏累代の崇敬は殊の外に篤く田地を寄進し、当時は丹生郷から大在、小佐井、川添、高田まで本社の氏子で、大在と一木の境に大鳥居(現 鳥居場)を建て参道として大いに賑わい、これより9月29日を御神幸祭として現在に至っています。

現在の祭神は、罔象賣神(みづはのめのかみ)と建岩龍命(たけいわたつのみこと)とされていますが、明治期に作製された神社明細帳には、祭神は「水神」とだけ記載されています。
そして、境内社として、稲荷社(祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ))と金刀比羅社(祭神:大物主命)の2社が誌されています。
このうち、金刀比羅社は近くに鎮座していたものを後に勧請し祀ったようですが、稲荷社の宇迦之御魂神については、水神と同様に由緒不詳となっています。

罔象賣神についてWikipediaでは、
ミヅハノメは、日本神話に登場する神である。
『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。
淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
と説明されています。

百嶋系図では、罔象賣神(=神大市姫)はトルコ系の匈奴の流れを汲む大山祇(=月読命)と大幡主の実の妹である埴安姫草野姫)との御子であり、また、稲荷社の宇迦之御魂神とは伊勢の外宮様(=豊受大神辛国息長大姫大目命のことで、罔象賣神スサノオの間にお生まれになっています。
つまり、この丹生神社では、母娘神が静かに寄り添うように鎮座されている、そういったところでしょうか。

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ミヅハノメの神について、百嶋先生は、このように述べられています(「肥後翁のblog」から転載)

熊本白川水源に白川吉見神社がある。
これは、表には春日大神を祀ると書いてあるが、このお宮は、ミヅハノメの神を祀ると書いてあります。
このミヅハノメの神が奈良の春日大社のもう一つ上の祭神です。
こちらが龍神姫です。
丹生川上神社上社、中社、下社とありますが、本当の龍神様はこのミヅハノメの神、同一の神様です。
このお嬢様が、伊勢の外宮様の姫大神です。

また、別の講演では、

豊玉彦の働きは非常に大きかったが、隠れてなかなか表にお出になっていない。
その代表が吉野の丹生川上神社、表に罔象賣神を立てていらっしゃる、実際の御祭神は豊玉彦。

ともお話されています。

それから、神紋の輪宝紋については、いつ頃から使われてきたのかは不明でした。
輪宝紋についての説明を「神紋総覧」(丹羽基二)から引用しますね。

輪宝はリンボウと濁って訓む。仏具。もと、古代インドで、転輪聖王が破邪の武器として使用。戦野をこの輪が進めば、悪魔の軍勢はたちまちにして敗戦したという。
日本では、仏法具現のシンボルとして寺院でこの印を用いた。ことに、聖護院派の修験道場ではこの紋を大切にしている。
従ってふつう神社では用いないが、神仏習合の風潮がすすむにつれて流用された。

どうやら、神紋としては多くないようで、「行者」輪宝となれば、さらに少ないようですね。
宮守りとして建てられた来迎寺と何かしら関係があるのかもしれませんが、どうでしょうか。

社務所前の恵日山 来迎寺 跡碑
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申殿内の神額
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「朱沙」:社地に祀られている原石  
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観音堂と丹生大明神元宮跡碑
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観音堂:寛政2年(1790年)、臼杵藩主稲葉公に願い出て丹生郷の村民安穏成就を祈願し、二ノ宮大明神の氏子中が観音石仏三十三体を寄進。西国三十三ヶ所石仏観音として、丹生大明神元宮跡に建立したとのことです。
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境内社 稲荷社:丹生神社の旧本殿。古風で豪華な装飾によって埋め尽くされている旧本殿は,寛文6年に建造されたもの。
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脇障子の彫刻 狛犬
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脇障子の彫刻 鷲
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先日、ふと思い立ち、再び丹生神社を訪ねました。
七五三などの準備で忙しい中、ご無理を申し上げ、時間を作っていただいたのですが、杉崎宮司はこの日もさわやかな笑顔で社務所に招き入れてくれました。

当社では、地域と一体となった青少年の育成活動にも力を注いでいるようです。
神輿の担ぎ手は担当となった地区の氏子だけが、その年に担ぐことができるようになっているとのことですが、担ぎ手が5地区に割り振られているため、氏子は5年ごとにしか神輿を担ぐことができません。
この5年間はやはり長いみたいで、特に子供にとっては間が開きすぎるようですね。
小学1年生で担ぐと、次は6年生ですからねぇ。
そこで当社では子供神輿を創設し、子供たちには毎年、担いでもらっているようです。
地方の神社が徐々に衰退していく中、こういった取組はとても大事だなぁと感じ入った次第です。

神輿は県内でも大きな部類に入るようです。
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日本の朱砂が初めて記録の上に示されたのは「魏志」の倭人伝のようですが、日本人が記録したものとしては「豊後風土記」が第一に挙げられるそうです。
續日本紀」文武天皇2年の条に「豊後国の真朱(純粋な赤土:硫化水銀)」と記述され、伊勢の丹生と肩を並べて断然光っていたようです。

松田壽男氏の「丹生の研究」にも、古文献の記述、丹生神社の存在、神社境内やその周辺の土壌からの水銀イオンの検出、丹生姓を名乗る居住者の存在などから、豊後の丹生郷は古代、辰砂の一大産地であったと記述されています。

しかしながら、「古代朝鮮文化を考える会」のメンバーである高坂孟承氏は、この丹生の一帯は辰砂というよりも、ベンガラ(弁柄,紅殻=酸化鉄赤)の生産が主体ではなかったかと、同会報に寄稿されている「丹生郷の朱と野間古墳群の被葬者」の中で述べられています。
また、先に紹介した野間古墳群の被葬者については、ベンガラの生産で富を得て丹生平野を支配していた海人とは別の集団で、丹生氏とも違う渡来系の氏族の首長とそれにつながる人々ではないかと推察しています。

その理由については幾つか述べられていますが、その1つに、この丹生地区から7~8㎞ほど北東方向に離れた、神崎地区に存在する築山古墳から大量に出土した「朱」を挙げています。
この「朱」を分析した結果、主たる成分はベンガラだったようです。
丹生の地やその周辺の地は鉄分を多く含み、酸化鉄が豊富に存在したことも間違いないようであり、この丹生からのベンガラが埋葬時に使用されたのではないか(古墳製造時期の差にやや問題があるものの)と述べられています。

「築山古墳」…。
Wikipediaによると5世紀代(古墳時代中期)の前方後円墳とのことです。
築山 → つきやま → 月山?
そう言えば、罔象賣神の父神は月読命(=大山祇)でしたね。
何か、通じるものがあるのでしょうか?

いやぁ、丹生の郷の神々も古代へのロマンをかき立ててくれますねぇ。


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【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
   ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/



Posted on 2016/11/13 Sun. 19:02 [edit]

category: 日記・古代史

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12.八幡古表神社・古要神社とアカル姫①  

先日、ひぼろぎ逍遥の古川清久氏に「今度は、古要神社(大分県中津市)、八幡古表神社(福岡県吉富町)とアカル姫イワナガ姫)との関係を書くつもりです」と話をしたところ、すかさず、「古要・古表は難しいよぉ」って、とてもアッサリとしたアドバイスをいただきました。

そうなんです。
確かに難しいですね。
ましてや、アカル姫(イワナガ姫)の足跡を探るなどとは、雨夜の月と申しますか、確証を掴めずにして当然なのかもしれません。
ただ、アカル姫の追っかけをやっている私めとしては、この辺で一度、古要・古表について整理しておこうと思った次第です。

さらに、大分県内にはイワナガ姫を祀っている「雲見神社」がいくつか鎮座しており、ここのところも非常に興味のあるところなので、今後、徐々にレポートをアップしていきたいと思っております。

八幡古表神社と古要神社は、どちらも傀儡子(くぐつ=繰り人形)による神舞や神相撲(傀儡子による神様の相撲)がつとに有名で、宇佐神宮の放生会で奉納されてきました。

その古表、古要について、百嶋先生は(「肥後翁のblog」から転載)

古表宮のことを申し上げましたので、古要を申し上げます。
古表は福岡県側の吉冨町、古要は大分県側の中津市にあります。
どちらも秦の始皇帝のところに西の方から逃げてきた逃げてきた逃げてきたの、後々、氵嬴(イン)一族といわれた人々の一時の仮住まいがここにあったのです。
どこを意味しているかというと、胡は胡人の胡です。
胡は西から来た人という意味です。
次は、表、要の地はどこにあるかというと大体、酒泉、これはですね、万里の長城、万里の長城の東の終点から、日本の方を眺めると、時たま、変な画像が浮かび上がるそうです。
日本があるんですよ。
東の端っこです。
そして、万里以上の遠いところに酒泉がある。
別の名前は嘉峪関(かよくかん)、万里の長城の西の終点です。
熊本城とそっくりです。
一万六千里くらい離れている。
そして、嘉峪関の近く、同じ場所に酒泉がある。
酒泉の意味は、2100年前に漢の武帝がやられてやられてやられっぱなしであった匈奴をやっつけてホッとして、将兵の苦労をねぎらう為に大きな酒樽を酒泉に運びまして、それでもその兵隊の数に足りないので、ここの泉に酒樽の酒をどーと投げ込んでみんなで夜光杯をかたむけたんです。
夜光杯は玉(ぎょく)です。
これを何万の将兵が酒泉に投げ込まれた酒兼水を夜光杯でかたむけたのです。
 (中略)
例えば、さっき申し上げましたように、「要」という地名が酒泉の近くに今もあるんですよ。
それから、「支那」という地名も今の中国の雲南省の地図にあるんです。
「表」の地名についても、酒泉の近くに同じ名前があると思って探しております。
 
と、話されています。

また、アカル姫については、

そしてこの方が最初、日本に入られる前のお名前はアカル姫です。
そして、ダンナの名前は、朝鮮半島から追いかけてきた天の日槍(後に、日本での名前は素戔鳴尊)です。
アカル姫のコースを申し上げます。
まず、日本に最初に入ってこられた場所は但馬国、現在の兵庫県です。
それから大分県の国東半島の姫島です。
そして国東半島に上陸します。
そして奥の方にはいられて安心院です。
そして表に出てらっしゃたのは神相撲をしている古表宮です。
“古”は“胡”の意味です。
そして、いまでは岩長媛となられたのです。

とも話されています。

大分県との県境(福岡県築上郡吉富町)に鎮座する「八幡古表神社」は、五月の若葉のように瑞々しく、凜とした、とても気品に満ちたお宮さんですね。


神門前の鳥居と参道
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大きな唐破風が特徴の随神門
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神門からの社殿。
正面は八幡宮(息長大神宮(おきながだいじんぐう))。
その両脇に四十柱宮(よそはしらぐう=古表大明神)と住吉神社が鎮座。
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御本社・八幡宮(息長大神宮)
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御本社・拝殿
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御本社・申殿に掲げられている当神社の別称「吹出濱神社」の神額
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四十柱宮
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四十柱宮の拝殿-申殿
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Posted on 2016/10/24 Mon. 19:16 [edit]

category: 日記・古代史

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11.神武天皇伝承の検証 柁鼻神社(宇佐市大字和気)② 

元永宮司から手渡された資料を転記します。

『神社創建と起源』
仲哀天皇九年庚辰九月十日、神功皇后新羅征討ノ為、諸国ニ令シテ船舶ヲ集メ給フ時 造船ヲ当タリテ御船ノ柁ヲ納メラレ祭祀ヲ行ヒシヲ創祀トスル神社ナリ。

続いて、八幡宮本紀と庄屋和気家に伝わっている古書からの抜粋箇所が根拠として示されていました。

八幡宮本紀 巻二

秋九月十日、諸国ニ令シテ船舶ヲ集メ、兵甲ヲ練ラシメ給フ。

 古傳ノ説ニ、皇后此時 長門ノ国厚狭郡船木山ニテ木ヲキラセ(よってその所を船木山と云ふ)
 豊前国宇佐郡和間浜ニテ四十八艘ノ御船ヲ造ラセ給フトイヘリ
 和間ノ浜ノ所入江ト云所ニ此時ヲツナガレシト云傅ヘタル大石今ニアリ
 又其ホトリ柁ガハナト云所ニ小社アリ、是ハ皇后ノ御船ノ柁ヲ納メラレシヲ神に祭ルト云フ
 此時新造ノ船ノ事ヲ世俗聞アヤマリテ皇后 異国ニオモムカセ給フ時ノ軍船ノ数ヲモ四十八艘トハ云フナロロシ。

庄屋和気家ニ伝ハル傳記古書

「仲哀天皇九年八、九ノ頃 神功皇后小社ヲ営シ伏敵柁鼻宮ト称シ給フ」
 云々ノ記録アリ。

 推定スルニ、當柁鼻神社ハ、昭和十五年七月 文部省ニ於イテ紀元二千六百年奉祝会ニ於テ調査依嘱セラレ 二、三年前ヨリ調査中ノ処、神武天皇御聖蹟菟狹ノ地点地域ニ指定セラレタル、神武天皇御聖蹟ノ入り口デアル 大分県宇佐郡北馬城村大字和気ニ鎮座スルコトハ、誠ニ意味アル事ナリ。
 即チ 神武天皇御聖蹟菟狹ノ地点地域ノ中デ唯一ツ神武天皇、即チ神日本磐余彦尊、五瀬尊、彦漱波武草不葺合尊ノ三神ヲ祀ル、柁鼻神社ノ鎮座スルコトハ他ニ例ノ無イコトデアル。

神武天皇聖蹟調査については、昭和15年、紀元二千六百年奉祝事業の一環として、「紀元二千六百年奉祝会」が文部省に委嘱し実施されたようです。
全国で19箇所を聖蹟と指定し、花崗岩製の顕彰碑が建てられたとのことです。
「菟狹ノ地点」は「聖蹟推考地(価値ある学説または資料により推考し得るもの)」として選定され、宇佐神宮内に顕彰碑が建てられています。

この顕彰碑によると、「菟狹ノ地点」は、菟狭津彦(うさつひこ)、菟狭津媛(うさつひめ)の兄妹が神武天皇を饗応したと伝えられる「一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)」の候補地の一つである宇佐神宮境内の地点(有力な候補地はこのほかに県内2箇所)と神武天皇の上陸地とされる柁鼻の地点とがセットで選定されているようです。
ただ、この事業については顕彰碑が建てられ終わっているようで、多分に政治色が強かったのではないでしょうか。

 當神社ハ、神功皇后新羅征討ノ際 軍船ノ柁ヲ納メテ神祭セシ小社ナリトスルモ、前記、三神ヲ主祭神トシ神社名モ柁鼻神社ト称スル点等ヨリ考察スルニ神武天皇御東遷時代ヨリノ聖地ナリシコトヲ肯定セラルルデアロウ。
   即チ、神武天皇、菟狹御駐輦ニ際シ皇船ハコノ柁鼻ヲ目標ニシテ寄港セラレ給ヒシモノト推定ハ、昨年 度々ノ調査ノ為来宮セル 神武天皇御聖蹟調査委員ノ何レモ肯定スルトコロニシテ、カルガ故ニ、北馬城大字和気、大字橋津ヨリ宇佐町大字南宇佐一帯ノ宇佐神宮ヲ中心トシタチイキヲ聖蹟トシテ指定セラレタルモノデアル。
 殊ニマタ、神武天皇ノ御東遷 菟狹御駐輦ノ際、彦五瀬命御船ヲ繋ギ奉リシ「天石」ト称スルモノ遺ル事、並ニ彦五瀬命 此ノ地ノ豪族多比彦ノ女、千(瑣)子ヲ御寵愛セラレ給ヒ、諏訪田主ヲ生レ給ヒシ等傳説ノ存在スルトコロナリ

さらに、この柁神について、庄屋和気家に伝わる古書には、

 柁神命ハ御船ノ柁ヲ指シタルモノト思ウガ、同時ニ、八幡大神ガ欽明天皇二十九年ヨリ同三十二年、御神名ヲ告ゲサセ給フ迄ノ間、鍛冶ノ翁ノ姿ヲセラレ給フコトヲ思ウ時、柁神命、即チ、鍛冶神命ナランカト思ワレル。
 (中略)
 蓋シ、此ノ入江ニ臨ム柁鼻ノ聖地ガ、又航海上ノ重要ナル濱デモアッタ関係カラ、和気清麿公ガ上陸ノ地点デアリ、現ニ御船ヲ繋ギシ舟繋石モ現存シ、代々ノ宇佐神宮ノ勅使、和気使トノ重要ナル縁故モ生レ和気氏ノ住ム処トナリ大字和気ノ地名モ生レタ理由デアル。

と、誌されています。

なるほど、
要するに、神功皇后が朝鮮出兵に際して48隻の船を隣接する字入江に集め、船の柁を入れて祈ったということで、この柁を祀った所に柁神の小社を建てたのが柁鼻神社の草創であるとのことですね。
そして、その柁神は八幡大神の化身である鍛冶の神の可能性もあるかもしれないということでしょうか。

ただ、庄屋和気家に伝わる古書の中で、非常に気になった箇所があります。

並ニ彦五瀬命 此ノ地ノ豪族多比彦ノ女、千(瑣)子ヲ御寵愛セラレ給ヒ、諏訪田主ヲ生レ給ヒシ等傳説ノ存在スルトコロナリ

古書の中には口伝を書き留めたものも多いのでしょう。
それ故、どのような書かれ方をしているのか、また、どういった古書なのか、やはり原本が気になるところです。
そこのところを元永宮司に相談したところ、
庄屋和気家は、代々、柁鼻神社近くに住まわれていたのですが、現在では、すでに転居されていて、原本などを確認することは難しいようでした。

ここに登場する「多比彦(おおひこ)」は、百嶋系図では神沼河耳(=高龗神=(贈)綏靖天皇)や草部吉見(=海幸彦=天忍穂耳=(贈)孝昭天皇)などの阿蘇一族であることに間違いないでしょう。
当社の合祀神にも高龗尊がちゃんと祀られています。

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阿蘇家についての百嶋先生の講演記録の一部です(「肥後翁のblog」から転載)

阿蘇家のもとの苗字は、「多(オオ:中国発音ツォ)」、それがこっちに来て、いちおう阿蘇に住んでいるから「阿蘇」と名乗ろう、そして途中、「宇治」に行ったので、宇治と名乗ろうという時期もあった。
また、阿蘇に帰ってきたので「阿蘇」に戻った。ところが、南北朝の戦乱があって、阿蘇家の大将、阿蘇惟直さんは佐賀県の天山で戦死なさいました。
天山の頂上には阿蘇惟直公のお墓があります。そういうことで今度はこれは困ったということで、阿蘇家の一族の恵良さんが、恵良というのは豊後玖珠郡です。
恵良惟ズミさんが一時期阿蘇家の指揮をお取りになりました。
そしてその後、阿蘇に戻ります。
こういう風にして、阿蘇家が、もともとの多が、阿蘇に落ち着くまで相当時間を経ています。そして、多のほうはどうなったかというと、春日の大神の系統は未だに多です。
そして、多神社は阿蘇神社とは言わずに多神社として、奈良県の田原本町にございます。
堂々たる古いお宮です。多神社、そしてこっちのほうは阿蘇神社になっていますね。
一応、阿蘇神社のほうが本家という風に世の中変わってしまいましたので、多神社は阿蘇家としては分社みたいになってしまって、堂々たるお宮ですけれども昔の栄光は失せております。
 (中略)
先日、私は多さんに会ってきました。
この多さんは日本の多さんではなく、阿蘇家の先祖多さんが鎮座しておられる雲南省の麗江です。
場所は、ヒマラヤの東に属する標高2400mのものすごく水に恵まれた世界の桃源郷の一つです。
ここの麗江に多さんのご先祖の多大将軍の銅像がございまして、銅像だけではなくて、霊廟もたくさんあるんです。

それから、「諏訪田主」は 建御名方(= 建南方=諏訪大社の主祭神)で良いかと思います。
通説では、建御名方は大国主の御二男とされていますが、百嶋神社考古学ではスサノオの娘であるオキツヨソ足姫(ナガスネ彦の妹)の御子(御父は海幸彦、鹿島大神、春日大神、天忍穂耳、支那都彦、天児屋根…)のようなのです。


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宇佐市と隣接する中津市を含む下毛郡や福岡県の旧上毛郡などを併せた一帯は、古代には三毛郡(みけのこおり)と呼ばれ、スサノオが治めていたと百嶋先生は話されています。
このうち吉富町などの「富(登美)」が付く地名や金富神社、大富神社などについては、ナガスネヒコと関係が深いとのことです。
往古、スサノオやナガスネヒコの御一家がこの地域近くに居を構えていたのかもしれませんが、ここのところについては、今後も、より丁寧な調査が必要ですね。

そして、オキツヨソ足姫は武内足尼(タケウチタラシニ)と名前を替えられ、豊玉彦とも通婚されています。
このため、建御名方は、白族(中国大陸の奥地の雲南省にいる白族=ペイツー=ペーホ―族)の流れを強く受け継ぐ豊玉彦(=豊国主)の御子ともなるのです。
名前に「主」の文字が使われても不思議ではないのかもしれません。
「主」の文字と白族の関係は「ひぼろぎ逍遥(173 博多の櫛田神社の祭神とは何か?)」で古川清久氏が詳しく述べられていますが、要するに「大幡主」「天御中主」「大国主」「事代主」「大物主」などの「主」の文字は、白族の、その時々の重要人物の尊称だということのようです。

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ここまで考えを進めて、ようやく当社の神紋と本殿素屋に掲げられている扁額の文字の「鼻」の字が「自」ではなく「白」となっていた意味が解ってきました。
上り藤と梶の葉の神紋は、天児屋根(藤原氏の祖神)と諏訪神が合わさったものなのでしょう。
また、扁額の文字に使われている「白」の字は、白族の流れを意味しているのではないでしょうか。

西側の境内入り口と参道
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舞殿
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境内社と祖霊社
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勅使 和気清麿公の上陸の地とも伝えられている(神社東側の船繋石)
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こうしてみると、柁鼻神社は宇佐神宮の近くにありながら、あまり神宮の影響を受けていないように感じられました。

柁鼻神社について、日本歴史地名大系第45巻(大分県の地名)には、

暦応3年(1340年)の大神宇貞重申状(小山田文書)などに加礼井明神とあることから、本来は乾飯の神、つまり旅行安全を守る神で、古代に猫橋(寄藻川に架かっていた低いめがね橋(橋津橋))の港から出航する船の守護神であったものか

と誌されています。

「加礼井明神」? 「乾飯の神」?
またまた、一考する価値がありそうですが、
先ほどから、我が家のワガママ娘(トイプードル)が遊んでくれとしきりに催促してくるので、この明神様については、またの機会といたしましょう。


【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
   ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/



Posted on 2016/10/14 Fri. 21:29 [edit]

category: 日記・古代史

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