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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

20.奈良・山の辺ラインをちらほらと「大和神社」② 


大和神社の創建時の鎮座地については、「神地を穴磯邑(あなしむら)に定め、大市の長岡岬(ながおかみさき)にお祀りなされた。」と当社由緒に記されているように、当地とは別の場所にあったようですね。

当社資料には、その場所について

『日本の神々(白水社刊)谷川健一編』では、鎮座地の「大市の長岡岬」については諸説あって混沌としている記したうえで、次の5説を紹介しています。
⒈ 大市長岡岬を城上郡(しきのかみごおり)の穴磯(あなし)神社(大兵主神)の地に比定し、そこから垂仁朝に現在地に移ったとする説  (『大日本地名辞書』)
⒉ 大市長岡岬を長岳寺(上長岡町)の地とし、現在地に移ったとする説  (『大和全国式内祭神略記』)
⒊ 大市を城上郡大市郷とし長岡岬を
 ①狭井神社の西の丘陵突出部とする説。
 ②檜原神社の西の丘陵突出部とする説。
 ③巻向山山崎とする説。
※狭井神社、檜原神社は共に明治10年以降大神神社社の摂社となりましたが、その以前は大和神社と大いに関係があり狭井神社は別社であったようです。(『日本の神々 -神社と聖地- 4 大和』)

現在の御旅所である大和若宮神社(中山町の大塚山古墳前方部)とする説。
大市長岡岬から神山(天理市岸田町小字神山?)に移り、永久6年(1118年)の大火災後現在の地に社殿が造営されたという説。 
「山辺郡誌」の引く伝承によれば、もと中山町の高槻山に鎮座していたが、奉幣使の便宜をはかって現在の地に移り、永久6年の火災後一時、旧地に戻った。その他、天正11年(1583年)の兵火で焼失した後一時歯定神社に移ったとする説もあるとのことです。
 
 私は、大和神社創建時は、1か3の説に従いたい。つまり「大市」は「城上郡大市郷」のこととし、三輪山から穴師かけての岬に鎮座しておられた。そして、釜口長岳寺(天理市上長岡町。古代地名;城上郡下野郷か)が神宮寺として建立された天長元年(824年)の頃には中山町に、その後、現在の地に遷られたと考えています。

と記述されています。

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この記述の中では、檜原神社と狭井神社が気になりますね。
檜原神社は檜原台地に鎮座する「桧原神社」が正式名称とのことです。

「桧原」と言えば天照大神、と言うように百嶋先生も常々、その強い関連性を話されています。
福岡市南区の桧原地区も天照大神と大いに関係があるようです。
そして、同様に「柏原(橿原ではなく)」の地名は神武天皇と関係が深いとのことでした。

それから、狭井神社の「狭井」からは(このことは百嶋神社考古学研究会のU女史に指摘していただいたのですが)、市杵島姫の別名の「佐井」が連想されますね。
事実、狭井神社の近くには市杵島姫神社が鎮座されています。

百嶋先生は、市杵島姫の別名として、「瀛ツ島(おきつしま)姫」や「スセリ姫」を用いられていますが、「佐井」や「佐用」も代名詞だったようです。

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この図は大分県との県境に位置する福岡県築上郡吉富町のものですが、この地に流れている「佐井川」の由来は、市杵島姫と関係が深いようです。
それは、百嶋系図では市杵島姫の御母は「アカル姫(=イワナガ媛)」であり、アカル姫は大分県宇佐市安心院町の「妻垣神社」から、ここ吉富町の「八幡古表神社(ブログ№12を参照)」に移られているようなのです。
ですから当然、この地は親子でゆかりが深いわけですね。

いずれにしても、檜原・狭井の両神社とも九州王朝との関係が深いようなのですが、大和神社の元々の鎮座地を特定することは難しいようです。

百嶋先生の話の続きです。

それでですね。佐賀の泉の久保(久保泉)から移って移って、移って行って、先ず、四国に渡ります。
その次は「いずみの国」に移ります。大阪の和泉です。
そして、今度は天理に移ります。天理、奈良のですね。要するに移って移って移っての終点。
途中にもありますけど、終点には本物がいっぱいあるんですよ。でも、発表できませんよ。
そして、そこの本物の本物は大国主ですよ。
で、そのぉ、それが何を意味しているかというと、1期の親衛隊長は金山彦。
それからちょっと時代が下がって、2期の親衛隊長は大国主。
そして大国主の家来じゃないけど、伊勢の外宮様なんかも配下として入っていて、九州王朝をお護りするために大変な努力をなさった。
その努力をなさった場所は佐賀の久保泉ですね。

九州王朝初期に親衛隊長として神武天皇をお護りしたのがイスラエル系統の金山彦尊。
その後、中期の親衛隊長が大国主命で、懿徳、孝霊両天皇にお仕えし、当神社では八千戈大神(やちほこのおおかみ)として本殿(向右)に祀られています。
本物の本物と百嶋先生が話されているので、大国主命はこの地まで、市杵島姫とともにやってきたのでしょう。
百嶋先生によれば、大国主命が本当に活躍された場所は関東とのことで、その結果、「武蔵大國魂大神 (おおくにたまのおおかみ)」として鎮座されてるようです。

また、本殿・向左に祀られている御年大神(=ハイキ神=早岐神=波比岐神=贈・孝安天皇)は九州王朝の特務機関長として隠密行動(スパイ活動?)の任に当たっていたとのことで、東遷の際には、軍団の警護に力を注いだものと思われます。

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であれば、中央に祀られている「日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)」とは、いったいどなたなのでしょうか?
やはり神武天皇のことなのでしょうか?

ここに興味深い百嶋系図があります。

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この系図の孝霊天皇には「大和大国魂」と記されていますね。
さらに別の系図には、孝元天皇の横に「倭大国魂」と書かれています。
このことは、どう考えればよいのでしょうか。

思うに「日本大國魂大神」とは神武、懿徳、孝霊、孝元と続く、呉の太白「姫氏」の系統である、(百嶋先生の言葉を借りるならば)「正統皇統」の神霊のことではないでしょうか。
尊い神霊を九州から運んできた。
その途中、所々で「いずみ」の御印を残しながら奈良の地にたどり着き、そこを「新泉」と名付けて終点としたが、何故か、それらのことは史実からすっかり消されてしまっています。
しかしながら、本物の本物は今なお、この朝和の里に眠っているのでしょう。

今一度、「大和神社由緒略誌」を読み返すと、

主神は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)とも申し上げ、地上・地下万物の生育発展、人間及び生物の生命・壽を司り給ひ、日本大八州の国魂に坐す偉大尊貴なる御神格に坐します。

との記述に気づきました。

おそらく、そういうことなのでしょう。

長岳寺の庫裏(重要文化財)では寺料理の「そうめん」を美味しく
いただき、一時の涼に心身ともに和むことができました。
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【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】

Posted on 2017/08/12 Sat. 20:00 [edit]

category: 日記・古代史

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