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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

18.【神武天皇伝承】早吸日女神社③(大分市佐賀関)  


早吸日女神社について、大分の神々(昭和49年 高原三郎 著)」からの引用です。

三柱の筒男即ち住吉三神は諸神の濯ぎ祓いの時、水に入って吹き生した神であり、大地海原諸神=三柱の少童神即ち綿津見三神は、水を出でて吹きだした神である。
なお、八十枉津日神=大綾津日命=瀬織津姫命という説や、大直日神=神直日神=気吹戸主神という説が記録されている。
(中略)
要するにこの六神の名は諸神が泉国(ヨモツクニ)を見て不祥(サガナシ)となり穢悪(ケガレ)を濯ぎ除(ハラ)わんとした橘之小門の檍岐原(アワギガハラ)の地主神(ツツノオノカミ)たる大綿津見神の功徳を賞賛したものである。
中世では六所大権現と称した。
この地を領した各領主が何れも深く尊崇した。
(中略)
これと同系統または類似の社の(大分)県下の分布は次の通りであるが、本社の佐賀関と南部地方以外は、ほとんど山中部に存在するという興味ある分布を示している。

そして祓戸六神など、同系統または類似のものとして36社を掲載しています。
この中から、早吸日女(速吸姫)を奉斉している社や早吸日女神社と関係の深い「関神社」などを抜き出してみますと、

【海岸地域】
・早吸日女神社:大分市佐賀関  :八十枉津日神、大直日神、大地海原諸神、住吉三神
・六柱神社  :大分市佐賀関  :八十枉津日神、大直日神、大地海原諸神、住吉三神
・早吸日女社 :佐伯市蒲江町  :住吉三神

【中山間地域】
・関大神社  :国東市安岐町  :瀬織津姫命、気吹戸主命、早秋津姫命
・早吸日賣神社:大分市旦野原  :住吉三神、(底津,中津,上津)綿津見神
・関社    :佐伯市宇目町  :早吸姫命(八柱神社 境内社)
・向原神社  :豊後大野市三重町:早吸姫命 外
・年神社   :竹田市玉来   :速吸姫命 外
・二柱社   :竹田市玉来   :速吸姫命(主神) 外
・天満社   :竹田市松本   :速吸姫命 外
・早吸社   :竹田市入田   :大綾津日命、大直日神、大地海原諸神 外
・権現社   :竹田市久住   :速吸姫命 外
・六柱社   :竹田市植木   :大綾津日命、大直日神、大地海原諸神 外
・関社    :九重町松木   :関大権現(主神)
・八幡社   :日田市西有田  :早吸日女神 外
・平野社   :日田市有田   :早吸日女神、天照大御神、大宮賣神、宇賀魂命
・大山祇社  :日田市東有田  :早吸日女神 外
・関社    :日田市大肥   :早吸日女神(天満社 境内社)
・金山神社  :日田市夜明   :早吸姫命、須佐之男、大己貴命
・関神社   :日田市田島   :早吸日女神(大原八幡宮 境内社)
・関神社   :日田市天瀬町  :早吸姫神(主神)

となっています。

やはり、日田市、竹田市を中心とした中山間地域に集中してますねぇ。 
ということは、早吸日女神は漁業や航海を生業とする海部の人々と、必ずしも強い結びつきは無いものと考えて良さそうですね。

大分市旦野原に鎮座する早吸日賣神社
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モダンな造りが新興住宅地と良くマッチしている。
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祭神は底筒之神、中筒之神、表筒之神のいわゆる住吉三神
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神紋は十六葉菊
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境内の石祠
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ならば、早吸日女(速吸姫)とは?

岩手県遠野市附馬牛町の早池峰山に鎮座する「早池峰(はやちね)神社」の祭神は「瀬織津姫」であり、「風琳堂主人」は、

【大昔に女神あり】
四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯[はやちね]という、北の方附馬牛[つくもうし]の奥にあり。東の方には六角牛[ろっこうし]山立てり。
石神[いしがみ]という山は附馬牛と達曾部[たっそべ]との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来内[らいない]村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫目覚[めざ]めてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。
若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもうゆえに、遠野の女どもはその妬[ねた]みを畏[おそ]れて今もこの山には遊ばずといえり。(『遠野物語』第二話、『柳田國男全集』所収)
 ここには、遠野三山と呼ばれる早池峰山、六角牛山、石上(石神)山に「若き三人の女神」が住んでいる(「領したもう」)とある。
また、その「三人の女神」の「母の神」は「今の来内[らいない]村の伊豆権現の社」に留まったとされる。
早池峰山は早池峰神社、六角牛山は六神石神社、石上山は石上神社、そして伊豆権現社は現在の伊豆神社と、それぞれの神の拝所・祭祀場としての神社が現在もある。
昭和十四年に発行された『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会)には、上記神社がまつる神々は、次のように記録されている。

■遠野三山の神々と「母の神」の社
早池峯神社……瀬織津姫命
六神石神社……大己貴命、誉田別命
石上神社 ……経津主命、伊邪那美命、稲蒼魂命
伊豆神社 ……瀬織津姫命

遠野三山には「若き三人の女神」がいると記していた『遠野物語』だったが、六角牛山からは「女神」の存在は消えているようである。
また、石上山にしても、「伊邪那美命」はたしかに女神だが、伊豆神の娘神とは認められないので、この山からも、物語の女神は消えているとみてよい。
残るは早池峰山で、この早池峰山神と伊豆神として記載される「瀬織津姫命」という神が、この「特集」の中心となる女神である。(以下、略)

と述べられています。

遠野三山の三女神像(伊豆神社所蔵):風琳堂主人
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瀬織津姫櫛稲田姫と同神と考えられるので、この早池峰神社の祭神もスサノヲの后、櫛稲田姫のことで良いと思われます。
「早吸日女(はやすひめ)」と「早池峰(はやちね)」。
何となく、語感が似ていますねぇ。
なので、「早吸日女」も櫛稲田姫と同一神と考えたくなりますねぇ。

そう言ったことに思いを巡らせていたところ、
百嶋神社考古学研究会のメンバーでもある、U女史から貴重な情報が伝えられました。
何というタイミングの良さでしょうか。
U女史に感謝です。

それは、百嶋先生が講演会で使用した手書きの資料の中に鴨玉依姫の別名として、「早吸日女」が記載されていたというものでした。
そして、講演会で撮影したという写真も郵送していただきました。


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なるほど、鴨玉依姫は、早吸日女であり、林姫でもあったのですね。
それで、速吸瀬戸などの海岸部とは関係なく、中山間部にも多く鎮座されているのでしょうか。

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佐賀関の早吸日女神社では鴨玉依姫は当社の祭神からは消されていますが、夫神である大直日は祭神として祀られていますし、子供の椎根津彦、さらにその子供の黒砂、真砂は摂社として境内に鎮座しています。
そして、当社近くに鎮座する椎根津彦神社には子供とされる椎根津彦が祀られいます。

当社は、西暦701年(大宝元年)に古宮から、現在地の素娥(そが)の地に遷られていました。ね。
この西暦701年は古代史にとって、とても重要な意味ある年のようで、それまで続いていた九州年号の終焉の年とも伝えられています。

この九州年号と関係の深い九州北部には、蘇我氏(物部氏も同様)がかって活躍していたとの伝承が今も色濃く残されています。

蘇我氏について、ウイキペディアでの記載の一部です。

【蘇我氏は九州倭国の皇室】
以下のことから蘇我氏とは九州倭国の天皇家のことであったと考えられる。
・蘇我稲目以前の蘇我氏の先祖が分からない。
・新参の蘇我氏が何故、短期間で権力を掌握できたか分からない。
・蘇我氏は、渡来人の集団を支配し進んだ知識や技術を持っていたとされている。
・当時、畿内地方で唯一蘇我氏だけが仏教を崇拝していたとされている。
・蘇我氏の名は、馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿になることや蝦夷など、実名ではないと考えられる点がある。
・蘇我蝦夷の邸宅が「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅が「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼ばれていた。
・蘇我入鹿の子らが親王の扱いを受けていた。
・『国記』、『天皇記』といった皇室が代々受け継ぐべき史書を蘇我氏が所持し邸宅で保管していた。
・物部守屋を「丁未の乱」で滅ぼしている。物部氏は、「磐井の乱」で“長門”以西を支配することを認められた天皇家に次ぐ大豪族である。ナンバー2の豪族は皇権最大の危険要因であり、これを除く事は皇室として自然な行為である。また、蘇我氏が天皇家であり支配者だったからこそナンバー2の大豪族である物部氏に勝つことができたのである。


佐賀関を始めとする大分県内の早吸日女神社、それから大分県の外、兵庫県や富山県にも鎮座する林神社には元々、鴨玉依姫が主祭神として祀られていたのでしょう。
しかしながら歴史の波に翻弄され、蘇我氏などの、その時々の有力氏族の影響を強く受け続けた結果、入れ替わる舞台劇の役者さながらに祭神の交替が行われてきたのでしょう。
もちろん、それは何らかの意図があってのことと思われます。
そして、それぞれの社には、謎多き伝承をまとった由緒が真しやかに、今に、伝えられているということなのでしょうか


【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」をご覧ください。】

Posted on 2017/05/27 Sat. 23:31 [edit]

category: 日記・古代史

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