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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

17.神武天皇伝承の検証 早吸日女神社②(大分市佐賀関)  

「林の原点は大分市の早吸」
百嶋先生の資料に書き記されたこのメモの意味を考えてみなければなりませんね。

百嶋資料では、「林天皇」とは「蘇我入鹿」のことを指しているようです。
蘇我入鹿のフルネームは蘇我林臣鞍作(そがの はやしのおみ くらつくり)とのことですが、林臣」「林大郎」などの別名も持っていたようです。

林大郎は「林臣」家で育てられた「蘇我」の「大郎」(長男)を意味するのでしょうか。
「林」の名が気になります。

蝦夷・入鹿親子の城のような邸宅は柵で囲われ、兵庫(つわものぐら)には兵器が蓄えられていたそうです。
また、当時の最強戦闘集団が警護に当たっていたことや「蘇我家」の「男女(子供たち)」が「王子(みこ)」と呼ばれていたことなどを考えると、その権力は天皇を凌ぐ勢いだったようで、まさしく「林天皇」だったのでしょうか。

「早吸」と「林」、そして「蘇我氏」。

そう言えば、当社の鎮座地は、神社明細帳によると佐賀関大字関字須賀(すが)となっています。

享和3年(1803年)に豊後岡藩の儒学者 唐橋君山らによって編纂された豊後国の地誌「豊後国志」には、

大寶元年。奉神宣一。神宮于曲浦清地一。 曲浦呼爲和多浦

清地呼爲素娥一。後作洲賀一。盖佐加古稱。

と誌されています。

つまり、大寶元年(701年)に神慮によって遷座した現在地は、当初、「曲浦の清地」と呼ばれていたが、その後、曲浦を和多浦(わたのうら)、清地を「素娥(そが)」と呼ぶようになった。
これが後に「洲賀(すが)」となり、「佐加(さか)郷」という名称にも繋がっていったということでしょうか

なるほど、「早吸(速吸)」の地と「蘇我氏」とは何かしらの関連があるのかもしれませんね。

その蘇我氏の出自については諸説あり、
ウィキペディアでは、

『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としている。

具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては以下の諸説がありよく分かっていない。

 ・河内の石川(現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族という説

 ・葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説

『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。


と、記載されていますが、武内宿禰(たけうちのすくね)が出てきました。

武内宿禰は、百嶋系図では孝元天皇山下影姫(蘇賀姫)との御子となっています。
この山下影姫の御母は葛城高千那姫(菅忍比咩)、祖母は長髄彦(ナガスネヒコ)の妹である武内足尼(=オキツヨソ足姫)となっています。
何やら、蘇賀や菅など、蘇我に通じるような名前もチラホラと見られますね。


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早吸日女神社は天慶4年(941年)から天明6年(1786年)の約845年間、関六所大権現宮と称していたようです。
古くから、人々は当社を伊勢神宮になぞえて御関様(関権現)と称し、伊勢神宮に参拝することを参宮、当社に参詣することを半参宮ととなえ、ことに篤く信仰したようです。

郷土誌によれば、当社の神職家は安部家(宮主・下之宮)、幸(ゆき)家(検校・中之宮)、小野家(祠官・垢離堂(こりどう))、小野家(祠官・宮之崎(みやんざき))、関家(社家・上之宮)の5家だったとのことです。
これらの神職家は各地に配札場を持ち、祈祷札を配っていたようです。
当時、遠方から参拝に来た人たちを社家館で泊めて御札を授けていたとのことで、社家館には御祈祷所があったと伝えられています。
つまり、当時の神職たちは伊勢神宮の「御師(おし)」と同じような活動をしていたようですね。
大正期までは安部家、幸家、小野家(2家)の4家が神職をされていたようですが、現在は、小野家(1家)のみとなっています。

小野家についての郷土誌(佐賀関街道-関往還-)の記述です。

現宮司の小野家は、敏達天皇を祖とし、春日王子 → 妹子(いもこ)王 → 毛人(えみし)→岑守(みねもり)→ 篁(たかむら) → 葛弦(くずお)→ 好古(よしふる)→ 宥仁大夫秀長(ひろひとたゆうひでなが)と続いたが、承平6年(936年)、藤原純友が伊予において謀反を起こしたため、朝廷は好古を征討将軍として討伐に派遣、秀長も同行して早吸日女神社の神職となり、神社を護持するとともにその勢力を以て佐賀関を防衛したと言い伝えられている。

天慶4年(941年)、純友は捕らえられ天慶の乱は終わる。

その功績により好古は中将に任じられ、三位に叙せられたという。

秀長の子は、引き続き社家として神社に奉仕し、その護持に当たり今日に至っている。


現在の小野家の建物は、当主早吸日女神社宮司 小野清次秀崇の六代前、河内守秀真が明和年中(1764~1772)に建築したものである。

(中略)

建物の内部には、祈禱場・潔斎の間(この二か所の格天井(ごうてんじょう)には花鳥画が描かれている)、大名の間(上段の間)などが現存する。

県下では珍しい社家の建築物である。


小野家社家
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小野家社家の屋根に打たれている家紋(亀甲に唐花紋)
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小野家の家紋(男紋:亀甲に唐花紋)
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小野家の家紋(女紋:三つ割唐花紋
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実は、当社の小野宮司家と島根県出雲市の日御碕に鎮座する日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)の社家、小野家とが姻戚関係(あるいは同じ氏族)にあるとの説があります。
このことについて、現在の小野眞一郎宮司に訊ねましたが、きっぱりと否定されました。

百嶋先生は、日御碕神社の小野家について、ヘブライ系小野氏であり、天葺根命(=大山咋=佐田大神)の系統を継いでいると、話されています。

さらに、日御碕神社の境内社として、「林神社」なるものが鎮座されています。
とても、気になりますねぇ。

早速、ネットで検索すると、日御碕神社の由緒書きには、

林神社(摂社) 天葺根命(天冬衣命)

 境外、宇竜港附近の山上に鎮座す。天葺根命は天照大御神を経島に祀り、素盞鳴尊を隠ケ丘に祀り絡うた。即ち日御碕神社の祭主であって、命の子孫は世々その職を嗣ぎ(中世以降日御碕検校と称す)現小野宮司は実に九十七代の後 に当る。

と、記されているようです。

また、玄松子氏のブログでは、

摂社

天葺根神祉 出雲郷宇料(簸川郡大社町宇竜)にある。

祭神 波屋志明神〔神主の祖神である〕。


との記述もありました。

やはり、天葺根命と繋がってきますね。

林神社は大分県内にも鎮座していて、木野明神なるものが祀られていますが、この摂社と何かしらの関係があるのでしょうか。

林神社について百嶋資料で確認すると、
「林神社とはイカコヤ姫とその娘神・鴨玉依を祀る社」であり、このことは極秘事項と記されています。
イカコヤ(雷古要)姫とは、スサノヲと別れた後に建角身(=豊玉彦)と結婚した櫛稲田姫のことであり、その娘神である鴨玉依天葺根命(=大山咋=佐田大神)の后なのです。


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ここで関の早吸日女神社の祭神をもう一度、考えてみましょう。

 八十枉津日神(やそまがつひのかみ)=瀬織津姫櫛稲田姫
 大直日神(おほなほひのかみ)=佐田大神大山咋鴨玉依姫(=神直日)と夫婦神

ということでしたね。

百嶋先生はさりげなく、「瀬織津姫=櫛稲田姫」と記されていますが、これを理解するためには少しばかり時間が必要でした。

いろいろと調べた結果、「祇園牛頭天王縁起」に登場する頗梨采女(はりさいにょ)にたどり着きました。
頗梨采女(はりさいにょ)についてのウィキペディアの記述です。


 牛頭天王は祇園精舎の守護神ともされる仏教由来の神で、日本では行疫神(疫病を流行らせる神)として畏怖されるとともに神道の素戔嗚尊と習合し、明治期の神仏分離令まで祇園社(八坂神社)の祭神として祀られ、篤い尊崇を受けた神であるが、頗梨采女はその牛頭天王の后であることから、素戔嗚尊の后である奇稲田姫とも同一視された。

もともと頗梨采女は、祇園社の本殿西御座に祀られていたが、明治以後の八坂神社では、奇稲田姫として東御座に祀られている。


どうやら、頗梨采女櫛稲田姫は同神とのことのようです。
さらに、瀬織津姫は「疫病を流行らせる神」だったとも云われ、仏の力で封印された姿が「頗梨采女」だったようですね
なので、櫛稲田姫=頗梨采女=瀬織津姫の等式が成立するということでしょうか。

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「早吸」は「林(波屋志)」と関係が深く、さらに蘇我氏の影もちらついているようですが、くっきりとあぶり出すには、さらなる調査が必要のようです。

そして、潮の流れが速く、航行の難しい速吸瀬戸(はやすいのせと)と「早吸」とは、必ずしも関連は深くないのかもしれません。
何故なら、大分県内では、早吸日女神社と同系統と考えられる神社の多くが沿岸部ではなく、中山間部に鎮座しているのです。
不思議ですねぇ。
「早吸日女」とは一体、どういった神なのでしょうか。

そこのところについて、ボチボチと考えてみたいと思います。


【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」をご覧ください。】


Posted on 2017/03/08 Wed. 22:08 [edit]

category: 日記・古代史

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