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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

11.【神武天皇伝承】柁鼻神社(宇佐市大字和気)② 

元永宮司から手渡された資料を転記します。

『神社創建と起源』
仲哀天皇九年庚辰九月十日、神功皇后新羅征討ノ為、諸国ニ令シテ船舶ヲ集メ給フ時 造船ヲ当タリテ御船ノ柁ヲ納メラレ祭祀ヲ行ヒシヲ創祀トスル神社ナリ。

続いて、八幡宮本紀と庄屋和気家に伝わっている古書からの抜粋箇所が根拠として示されていました。

八幡宮本紀 巻二

秋九月十日、諸国ニ令シテ船舶ヲ集メ、兵甲ヲ練ラシメ給フ。

 古傳ノ説ニ、皇后此時 長門ノ国厚狭郡船木山ニテ木ヲキラセ(よってその所を船木山と云ふ)
 豊前国宇佐郡和間浜ニテ四十八艘ノ御船ヲ造ラセ給フトイヘリ
 和間ノ浜ノ所入江ト云所ニ此時ヲツナガレシト云傅ヘタル大石今ニアリ
 又其ホトリ柁ガハナト云所ニ小社アリ、是ハ皇后ノ御船ノ柁ヲ納メラレシヲ神に祭ルト云フ
 此時新造ノ船ノ事ヲ世俗聞アヤマリテ皇后 異国ニオモムカセ給フ時ノ軍船ノ数ヲモ四十八艘トハ云フナロロシ。

庄屋和気家ニ伝ハル傳記古書

「仲哀天皇九年八、九ノ頃 神功皇后小社ヲ営シ伏敵柁鼻宮ト称シ給フ」
 云々ノ記録アリ。

 推定スルニ、當柁鼻神社ハ、昭和十五年七月 文部省ニ於イテ紀元二千六百年奉祝会ニ於テ調査依嘱セラレ 二、三年前ヨリ調査中ノ処、神武天皇御聖蹟菟狹ノ地点地域ニ指定セラレタル、神武天皇御聖蹟ノ入り口デアル 大分県宇佐郡北馬城村大字和気ニ鎮座スルコトハ、誠ニ意味アル事ナリ。
 即チ 神武天皇御聖蹟菟狹ノ地点地域ノ中デ唯一ツ神武天皇、即チ神日本磐余彦尊、五瀬尊、彦漱波武草不葺合尊ノ三神ヲ祀ル、柁鼻神社ノ鎮座スルコトハ他ニ例ノ無イコトデアル。

神武天皇聖蹟調査については、昭和15年、紀元二千六百年奉祝事業の一環として、「紀元二千六百年奉祝会」が文部省に委嘱し実施されたようです。
全国で19箇所を聖蹟と指定し、花崗岩製の顕彰碑が建てられたとのことです。
「菟狹ノ地点」は「聖蹟推考地(価値ある学説または資料により推考し得るもの)」として選定され、宇佐神宮内に顕彰碑が建てられています。

この顕彰碑によると、「菟狹ノ地点」は、菟狭津彦(うさつひこ)、菟狭津媛(うさつひめ)の兄妹が神武天皇を饗応したと伝えられる「一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)」の候補地の一つである宇佐神宮境内の地点(有力な候補地はこのほかに県内2箇所)と神武天皇の上陸地とされる柁鼻の地点とがセットで選定されているようです。
ただ、この事業については顕彰碑が建てられ終わっているようで、多分に政治色が強かったのではないでしょうか。

 當神社ハ、神功皇后新羅征討ノ際 軍船ノ柁ヲ納メテ神祭セシ小社ナリトスルモ、前記、三神ヲ主祭神トシ神社名モ柁鼻神社ト称スル点等ヨリ考察スルニ神武天皇御東遷時代ヨリノ聖地ナリシコトヲ肯定セラルルデアロウ。
   即チ、神武天皇、菟狹御駐輦ニ際シ皇船ハコノ柁鼻ヲ目標ニシテ寄港セラレ給ヒシモノト推定ハ、昨年 度々ノ調査ノ為来宮セル 神武天皇御聖蹟調査委員ノ何レモ肯定スルトコロニシテ、カルガ故ニ、北馬城大字和気、大字橋津ヨリ宇佐町大字南宇佐一帯ノ宇佐神宮ヲ中心トシタチイキヲ聖蹟トシテ指定セラレタルモノデアル。
 殊ニマタ、神武天皇ノ御東遷 菟狹御駐輦ノ際、彦五瀬命御船ヲ繋ギ奉リシ「天石」ト称スルモノ遺ル事、並ニ彦五瀬命 此ノ地ノ豪族多比彦ノ女、千(瑣)子ヲ御寵愛セラレ給ヒ、諏訪田主ヲ生レ給ヒシ等傳説ノ存在スルトコロナリ

さらに、この柁神について、庄屋和気家に伝わる古書には、

 柁神命ハ御船ノ柁ヲ指シタルモノト思ウガ、同時ニ、八幡大神ガ欽明天皇二十九年ヨリ同三十二年、御神名ヲ告ゲサセ給フ迄ノ間、鍛冶ノ翁ノ姿ヲセラレ給フコトヲ思ウ時、柁神命、即チ、鍛冶神命ナランカト思ワレル。
 (中略)
 蓋シ、此ノ入江ニ臨ム柁鼻ノ聖地ガ、又航海上ノ重要ナル濱デモアッタ関係カラ、和気清麿公ガ上陸ノ地点デアリ、現ニ御船ヲ繋ギシ舟繋石モ現存シ、代々ノ宇佐神宮ノ勅使、和気使トノ重要ナル縁故モ生レ和気氏ノ住ム処トナリ大字和気ノ地名モ生レタ理由デアル。

と、誌されています。

なるほど、
要するに、神功皇后が朝鮮出兵に際して48隻の船を隣接する字入江に集め、船の柁を入れて祈ったということで、この柁を祀った所に柁神の小社を建てたのが柁鼻神社の草創であるとのことですね。
そして、その柁神は八幡大神の化身である鍛冶の神の可能性もあるかもしれないということでしょうか。

ただ、庄屋和気家に伝わる古書の中で、非常に気になった箇所があります。

並ニ彦五瀬命 此ノ地ノ豪族多比彦ノ女、千(瑣)子ヲ御寵愛セラレ給ヒ、諏訪田主ヲ生レ給ヒシ等傳説ノ存在スルトコロナリ

古書の中には口伝を書き留めたものも多いのでしょう。
それ故、どのような書かれ方をしているのか、また、どういった古書なのか、やはり原本が気になるところです。
そこのところを元永宮司に相談したところ、
庄屋和気家は、代々、柁鼻神社近くに住まわれていたのですが、現在では、すでに転居されていて、原本などを確認することは難しいようでした。

ここに登場する「多比彦(おおひこ)」は、百嶋系図では神沼河耳(=高龗神=(贈)綏靖天皇)や草部吉見(=海幸彦=天忍穂耳=(贈)孝昭天皇)などの阿蘇一族であることに間違いないでしょう。
当社の合祀神にも高龗尊がちゃんと祀られています。

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阿蘇家についての百嶋先生の講演記録の一部です(「肥後翁のblog」から転載)

阿蘇家のもとの苗字は、「多(オオ:中国発音ツォ)」、それがこっちに来て、いちおう阿蘇に住んでいるから「阿蘇」と名乗ろう、そして途中、「宇治」に行ったので、宇治と名乗ろうという時期もあった。
また、阿蘇に帰ってきたので「阿蘇」に戻った。ところが、南北朝の戦乱があって、阿蘇家の大将、阿蘇惟直さんは佐賀県の天山で戦死なさいました。
天山の頂上には阿蘇惟直公のお墓があります。そういうことで今度はこれは困ったということで、阿蘇家の一族の恵良さんが、恵良というのは豊後玖珠郡です。
恵良惟ズミさんが一時期阿蘇家の指揮をお取りになりました。
そしてその後、阿蘇に戻ります。
こういう風にして、阿蘇家が、もともとの多が、阿蘇に落ち着くまで相当時間を経ています。そして、多のほうはどうなったかというと、春日の大神の系統は未だに多です。
そして、多神社は阿蘇神社とは言わずに多神社として、奈良県の田原本町にございます。
堂々たる古いお宮です。多神社、そしてこっちのほうは阿蘇神社になっていますね。
一応、阿蘇神社のほうが本家という風に世の中変わってしまいましたので、多神社は阿蘇家としては分社みたいになってしまって、堂々たるお宮ですけれども昔の栄光は失せております。
 (中略)
先日、私は多さんに会ってきました。
この多さんは日本の多さんではなく、阿蘇家の先祖多さんが鎮座しておられる雲南省の麗江です。
場所は、ヒマラヤの東に属する標高2400mのものすごく水に恵まれた世界の桃源郷の一つです。
ここの麗江に多さんのご先祖の多大将軍の銅像がございまして、銅像だけではなくて、霊廟もたくさんあるんです。

それから、「諏訪田主」は 建御名方(= 建南方=諏訪大社の主祭神)で良いかと思います。
通説では、建御名方は大国主の御二男とされていますが、百嶋神社考古学ではスサノオの娘であるオキツヨソ足姫(ナガスネ彦の妹)の御子(御父は海幸彦、鹿島大神、春日大神、天忍穂耳、支那都彦、天児屋根…)のようなのです。


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宇佐市と隣接する中津市を含む下毛郡や福岡県の旧上毛郡などを併せた一帯は、古代には三毛郡(みけのこおり)と呼ばれ、スサノオが治めていたと百嶋先生は話されています。
このうち吉富町などの「富(登美)」が付く地名や金富神社、大富神社などについては、ナガスネヒコと関係が深いとのことです。
往古、スサノオやナガスネヒコの御一家がこの地域近くに居を構えていたのかもしれませんが、ここのところについては、今後も、より丁寧な調査が必要ですね。

そして、オキツヨソ足姫は武内足尼(タケウチタラシニ)と名前を替えられ、豊玉彦とも通婚されています。
このため、建御名方は、白族(中国大陸の奥地の雲南省にいる白族=ペイツー=ペーホ―族)の流れを強く受け継ぐ豊玉彦(=豊国主)の御子ともなるのです。
名前に「主」の文字が使われても不思議ではないのかもしれません。
「主」の文字と白族の関係は「ひぼろぎ逍遥(173 博多の櫛田神社の祭神とは何か?)」で古川清久氏が詳しく述べられていますが、要するに「大幡主」「天御中主」「大国主」「事代主」「大物主」などの「主」の文字は、白族の、その時々の重要人物の尊称だということのようです。

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ここまで考えを進めて、ようやく当社の神紋と本殿素屋に掲げられている扁額の文字の「鼻」の字が「自」ではなく「白」となっていた意味が解ってきました。
上り藤と梶の葉の神紋は、天児屋根(藤原氏の祖神)と諏訪神が合わさったものなのでしょう。
また、扁額の文字に使われている「白」の字は、白族の流れを意味しているのではないでしょうか。

西側の境内入り口と参道
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舞殿
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境内社と祖霊社
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勅使 和気清麿公の上陸の地とも伝えられている(神社東側の船繋石)
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こうしてみると、柁鼻神社は宇佐神宮の近くにありながら、あまり神宮の影響を受けていないように感じられました。

柁鼻神社について、日本歴史地名大系第45巻(大分県の地名)には、

暦応3年(1340年)の大神宇貞重申状(小山田文書)などに加礼井明神とあることから、本来は乾飯の神、つまり旅行安全を守る神で、古代に猫橋(寄藻川に架かっていた低いめがね橋(橋津橋))の港から出航する船の守護神であったものか

と誌されています。

「加礼井明神」? 「乾飯の神」?
またまた、一考する価値がありそうですが、
先ほどから、我が家のワガママ娘(トイプードル)が遊んでくれとしきりに催促してくるので、この明神様については、またの機会といたしましょう。


【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
   ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/



Posted on 2016/10/14 Fri. 21:29 [edit]

category: 日記・古代史

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