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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

9.大年社(宇佐市安心院町) 

 佐田神社から車で1~2分、山沿いの道を山香(やまが)町方面に向かうと、小さな川に向かい、山を背負うように二体の仁王像が鎮座しています。その場所は右側に大きくカーブしている県道?のコーナー入り口なので、進行方向に気を取られていると、突然、仁王像が左手に現れるといった感じです。ウッカリすると通り過ぎちゃいますね。

 そして、この地(安心院町山蔵(やまぞう))に鎮座しているお宮が、佐田神社でお生まれになった佐田大神(=大山)の御父・海幸彦(=大年神=草部吉見=天児屋根)を祀っている「大年社」です。
 
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 車を停め、せっかくなので、いかつい仁王さんの入り口から境内に入りましょう。
  
 入り口には仁王像と並んで説明板が立てられていました。

【山蔵(やまぞう)の仁王様】
 この仁王様は、文政10年(1827)西原鉄右衛門の奉納で、背銘によると「家畜安全」を祈念したものと記されています。
 大年神社にはこの仁王様にまつわる次のような「仁王伝説」があります。
 向かって左、やや小さい方の仁王様が、力比べをしようと中国大陸まで出かけたところ、中国の仁王様の家来が大火鉢を軽々と持って出て来ました。負けじと日本の仁王様も大火鉢を動かそうとしましたが、重くて動かすこともできません。
 これはとても勝てないと逃げ帰ろうとしたところ、中国の仁王様が追いかけてきてしまいました。そのまま日本の仁王様は左に、中国の仁王様は右に鎮座することになったという口碑があります。

 なるほど、そういうりっぱな由緒があるので、ちょっと威張ったように感じられるわけですね。

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 やや急な石段を登ると、想像していたよりも広く、そして何となく不思議に満ちた境内が現れてきました。
 
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 襟を正して、拝殿へ。
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 そして、本殿。
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 本殿は素屋(すや)と言うのでしょうか、鞘殿のような覆い屋根の下に収まっていました。
 
 また、境内に建っている板碑も、何やら由緒がありそうです。

【大年社板碑(二基)】
 二基は、ほぼ同形同大で石材も共に凝灰岩。
 上段の板碑は塔身正面上部に大きく種子「アーク(胎蔵界大日)」を薬研彫りし、その下に「暦応四年(1341)巳三四」と陰刻しています。
 (略)
 この板碑は時宗関係集団に依って南北朝時代初めに造立されたものと考えられています。
 一遍を宗祖とする教団が時宗で、南北朝時代から室町時代にかけて一大隆盛をきわめています。信者には貴族・武士・一般民衆等あらゆる階層がいました。ここ佐田では佐田荘を領有した佐田氏(宇都宮系佐田氏)の建立と考えられています。武士が戦場で討ち死にした場合、時宗僧が十回念仏を唱えて極楽往生に導き、且つその活躍の様を遺族に伝えるという働きをした「陣僧」の存在も考えられています。安心院町教育委員会

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 上段の板碑と石祠(後方は稲荷社)
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 神社明細帳では、祭神は大年神御年神若年神の三柱。
 
 百嶋系図では、この三柱の親子関係がしっかりと示されています。

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 大年神は海幸彦(草部吉見=天児屋根=(贈)孝昭天皇)。そして、その御子である御年神(御母は支那ツ姫)はハイキ神(=早岐神=波比岐神=贈・孝安天皇)とのことで、九州王朝の特務機関長として隠密行動(スパイ活動?)をされていたそうです。それから、若年神(贈)景行天皇(=大足彦)であるようです。

 つまり、親、子、孫と三世代がすっきりと祀られていて、ある意味、とても解りやすいお宮さんというところでしょうか。

  安心院町誌(昭和45年)によると、永久2年(1114)の創立と書かれています。さらに、「領主崇敬厚く、田畑4反余を奉納、村民恐縮して神殿を改築する。時に天和5年(1685)10月と云う。旧村社」と記されていました。
 そして、末社は「神明社」、「金毘羅社」、「稲荷社」、「天神社」となっています。

 やはり、というか、「金毘羅社」が出て来ました。金毘羅社について、「ひぼろぎ逍遥」の古川清久氏の「267 四国と言えば金毘羅山に初参拝」から引用しますと…、

 金毘羅神社の祭神については、依然から疑問が呈されており、誰が祀られているのかについて争いがあります。皆さんたちも、結局、誰が祀られているかは分からないままになっていないでしょうか?

 明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。
ウィキペディア(2015 1119 15:00)

 結局、「大物主」とは誰なのか?ということになるのです。敬愛する「玄松子」氏も「大物主」を「大国主」とされており、それはそれで良さそうなのですが、百嶋神社考古学では「大山咋」=佐田大神=日吉神社=日枝神社=松尾神社…とします。
百嶋先生は、「結局、金毘羅さんは大山咋命(子は第10代とされた(贈)崇神天皇)を祀っている」とされていました。
これが、「金毘羅神社の祭神が」という意味だったのか、「金毘羅神社の祭神を大物主とした上で祭神が」大山咋命とされていたのかは、まだ確信が持てません。
勿論、初見の段階で結論を出すことなどできませんが、とりあえず分かる範囲でお話しておくものです。

と、記述されています。 

 金毘羅社の祭神が大山咋(おおやまくい)だとすると、この大年社と佐田神社との結びつきが益々、濃くなってきましたねぇ。そして同時に、古代の安心院がおぼろげながら、うっすらと見えてきたように感じられました。 
 
 道路に面した鳥居と拝殿正面の石段
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 神楽殿
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 境内に祀られている石祠群
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【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
   ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/

 

Posted on 2016/09/25 Sun. 20:21 [edit]

category: 日記・古代史

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