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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

10.【神武天皇伝承】柁鼻神社(宇佐市大字和気)① 

宇佐神宮の北辺を流れ、神宮の神域を画している川が寄藻(よりも)川です。
参道にはこの川を越えて、入ることになります。

宇佐神宮の呉橋と寄藻
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川の源は、御許山の南麓。
放生会が行われる和間の浜で、周防灘に注いでいます。

寄藻川は、宇佐神宮付近では、古来から様々な名で呼ばれています。
呉橋より上流は寄藻川または呉橋川、呉橋から表参道の神橋までは月瀬川、そして神橋から宇佐神宮の境域付近は浅瀬川となるようです。
 
『影見れば 月も南に よりも川 清き流を渡る宮人』(玄旨法印 宇佐小鑑伝)

この歌を詠んだ玄旨法印(げんしほういん)と細川幽斎(戦国-江戸時代前期の武将・歌人)のことで、細川忠興(ただおき)の父なんですね。

寄藻川の源を発する御許山には宇佐神宮の奥宮が鎮座されています。
山頂は聖域とされ、禁足地ともなっています。
まさに「清き流」なのです。

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宇佐神宮を離れた寄藻川は、やがて向きを北に変え、穏やかに蛇行しながら周防灘を目指します。
途中、国道や線路を横切り、北流する向野川を合わせ、宇佐市と豊後高田市との境界を画しながら、河口で桂川と接し、周防灘に注ぎ出でています。

ここ、「柁鼻(かじはな)神社」は、寄藻川が国道を横切ったあたりに鎮座しています。
そして、この柁鼻の地にも、神武天皇東遷の折、御一行が上陸されたとの伝承が残されているのです。

往古、この付近まで海だったのでしょうか?

確かに神社から北方向、遙か遠くまで宇佐平野の田園地帯が広がっていて、海岸までは遮るものもないようです。

文献で確認してみましょう。

中世の宇佐宮周辺図(「八幡神とはなにか」:飯沼賢司著)によると周防灘に面した海岸線は和間の浜から柁鼻神社近くまで、寄藻川の注ぎ口に向かうように内陸側に大きく切れ込み、湾状の内海を形成しています。
地図には、その内海に「江海」という文字が記されています。
どうやら、この辺り一帯の水田開発は、江戸時代終わりから近代にかけてであり、明治までは、外海から船が入ってきていたようです。
なるほど、であればその昔、この近くに皇船が繋がれたとしても不思議はないですよね。

事実、この平地部には、柁鼻(かじばな)・入江(いりえ)・柁取(かじとり)・浜首(はまくび)・大波(たいは)・沖(おき)といった海や港に関係すると思われる字名が多く残されているようです。

では、神社由書を見てみましょう。

境内入り口に建てられた説明板です。

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【御祭神】
 ・鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
 ・彦五瀬尊(ひこいつせのみこと)

 ・神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと)『神武天皇』


【合祀社】

 ・伊弉諾 伊弉冊尊
(いざなぎ いざなみのみこと)
 
・市杵島姫尊(いちきしまひめのみこと)
 ・柁神命(かじのかみのみこと)

 ・気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
『神功皇后』

 ・和気清麿(わけのきよまろ)

 ・大物主神(おうものぬしのかみ)

 ・顕仁尊(あきひとのみこと)

 ・火彦霊神(ほむすびのかみ)

 ・菅原神(すがわらのかみ)

 ・高龗尊(たかおかみのみこと)

【御由緒】
八幡総本社である宇佐神宮一帯は、神武天皇東遷の聖蹟とされ、椎根津彦命(しいねつひこのみこと(椎宮の御祭神))に先導された神武天皇一行はこの柁鼻の地に上陸された言われている。
「日本書記」によれば、宇佐の豪族 菟狭津彦(うさつひこ)菟狭津媛(うさつひめ)の御兄弟(妹)が天皇の御一行に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を建てて大御饗(おおみあえ(食事))を奉りお迎えしたと伝えられるのが、 此の宇佐の地である。
また、この時神武天皇の勅諚(ちょくじょう)により天種子命(あめのたねこのみこと(後 藤原氏))は菟狭津媛を妻としたことによって大和朝廷と宇佐との関係がより深くなる。
よって、この柁鼻の地に三柱の神を祀りお社を建てたのが柁鼻神社の始まりである。
八幡宮御祭神の神宮皇后は三韓出兵に際し、和間の浜において軍船を築造し、ここにて柁神(かじのかみ)を祀ると言われている。
また、勅使(ちょくし)・和気清麿(わけのきよまろ)公上陸の地とされ、東側に船繋石(ふなつなぎいし)の遺跡がある。

国道沿いに建つ一の鳥居と境内入り口
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二の鳥居と参道
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拝殿
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通説では、祭神の鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)は彦五瀬尊(ひこいつせのみこと)と神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと(神武天皇))の父神であり、要するに親子で祀られているといったところでしょうか。

鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)は、鵜戸神宮(宮崎県日南市)や宮崎神宮(宮崎市)の祭神としても有名ですよね。

百嶋神社考古学では、ウガヤフキアエズは西暦170年のお生まれで、鴨・玉依姫との間に安曇磯良(アツミノイソラ)をもうけています。神武天皇は西暦122年のお生まれですので、50歳ほど神武天皇が年上なのです。

また、彦五瀬尊(ひこいつせのみこと)は、神武天皇のお后であるアイラツ姫の兄であり、共に金山彦(=火彦霊神(ほむすびのかみ))の御子なのです。
ですから、彦五瀬尊五瀬命いつせのみこと))は神武天皇の義兄ということですね。

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百嶋先生は神武東征は無かったが、ご巡幸はあったと話されています。
西暦165年頃のことで、神武天皇ご一行は東北地方まで訪れたそうです。

そのご巡幸には、義兄である彦五瀬尊も同行されたようです。
ご巡幸のコースとしては、宮崎県東臼杵郡諸塚村を通過し、熊本県上益城郡山都町に鎮座する幣立神宮(幣立神社)から二手に分かれ、南小国町で再び合流し、その後は九州西部を北上されたとのことです。

彦五瀬尊は神武天皇ご一行と別行動を取ったようで、竹田市に足跡を残されています。
大分県竹田市神原に鎮座する健男霜凝日子神社には、健男霜凝日子神(たけをしもごりひこのかみ)として彦五瀬尊が祀られています。

いずれにしても、神武天皇「東遷」とはやや違った感じがする、ご祭神の組み合わせなのですが、合祀されている柁神命(かじのかみのみこと)が何となく気になるところですね。

本殿が鎮座する素屋
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素屋にかかる扁額の柁鼻の鼻の字が「自」ではなく
何故か「白」となっていましたが…
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素屋の屋根には「上り藤に梶の葉」紋(あまり見かけませんが…)
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素屋内に鎮座されている祭神と合祀神の社殿
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鵜草葺不合尊、彦五瀬尊、神日本磐余彦尊の主祭神を祀る社殿
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訪問したこの日、
当神社の宮司職を務められている元永氏から、とても丁寧な応対をしていただきました。
さらに、柁鼻神社の由緒が誌された資料も提供していただき、感謝、感謝です。

その資料は、宇佐神宮や庄屋和気家に伝わってきた古書の類いから抜粋したものを、元永氏がまとめられたものでした。
「神社創建と起源」と題された資料には、境内に建てられている説明板とは少し違った、より詳しい由緒が誌されていました。


【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
   ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/


Posted on 2016/10/09 Sun. 14:32 [edit]

category: 日記・古代史

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