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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

20.奈良・山の辺ラインをちらほらと「大和神社」② 


大和神社の創建時の鎮座地については、「神地を穴磯邑(あなしむら)に定め、大市の長岡岬(ながおかみさき)にお祀りなされた。」と当社由緒に記されているように、当地とは別の場所にあったようですね。

当社資料には、その場所について

『日本の神々(白水社刊)谷川健一編』では、鎮座地の「大市の長岡岬」については諸説あって混沌としている記したうえで、次の5説を紹介しています。
⒈ 大市長岡岬を城上郡(しきのかみごおり)の穴磯(あなし)神社(大兵主神)の地に比定し、そこから垂仁朝に現在地に移ったとする説  (『大日本地名辞書』)
⒉ 大市長岡岬を長岳寺(上長岡町)の地とし、現在地に移ったとする説  (『大和全国式内祭神略記』)
⒊ 大市を城上郡大市郷とし長岡岬を
 ①狭井神社の西の丘陵突出部とする説。
 ②檜原神社の西の丘陵突出部とする説。
 ③巻向山山崎とする説。
※狭井神社、檜原神社は共に明治10年以降大神神社社の摂社となりましたが、その以前は大和神社と大いに関係があり狭井神社は別社であったようです。(『日本の神々 -神社と聖地- 4 大和』)

現在の御旅所である大和若宮神社(中山町の大塚山古墳前方部)とする説。
大市長岡岬から神山(天理市岸田町小字神山?)に移り、永久6年(1118年)の大火災後現在の地に社殿が造営されたという説。 
「山辺郡誌」の引く伝承によれば、もと中山町の高槻山に鎮座していたが、奉幣使の便宜をはかって現在の地に移り、永久6年の火災後一時、旧地に戻った。その他、天正11年(1583年)の兵火で焼失した後一時歯定神社に移ったとする説もあるとのことです。
 
 私は、大和神社創建時は、1か3の説に従いたい。つまり「大市」は「城上郡大市郷」のこととし、三輪山から穴師かけての岬に鎮座しておられた。そして、釜口長岳寺(天理市上長岡町。古代地名;城上郡下野郷か)が神宮寺として建立された天長元年(824年)の頃には中山町に、その後、現在の地に遷られたと考えています。

と記述されています。

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この記述の中では、檜原神社と狭井神社が気になりますね。
檜原神社は檜原台地に鎮座する「桧原神社」が正式名称とのことです。

「桧原」と言えば天照大神、と言うように百嶋先生も常々、その強い関連性を話されています。
福岡市南区の桧原地区も天照大神と大いに関係があるようです。
そして、同様に「柏原(橿原ではなく)」の地名は神武天皇と関係が深いとのことでした。

それから、狭井神社の「狭井」からは(このことは百嶋神社考古学研究会のU女史に指摘していただいたのですが)、市杵島姫の別名の「佐井」が連想されますね。
事実、狭井神社の近くには市杵島姫神社が鎮座されています。

百嶋先生は、市杵島姫の別名として、「瀛ツ島(おきつしま)姫」や「スセリ姫」を用いられていますが、「佐井」や「佐用」も代名詞だったようです。

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この図は大分県との県境に位置する福岡県築上郡吉富町のものですが、この地に流れている「佐井川」の由来は、市杵島姫と関係が深いようです。
それは、百嶋系図では市杵島姫の御母は「アカル姫(=イワナガ媛)」であり、アカル姫は大分県宇佐市安心院町の「妻垣神社」から、ここ吉富町の「八幡古表神社(ブログ№12を参照)」に移られているようなのです。
ですから当然、この地は親子でゆかりが深いわけですね。

いずれにしても、檜原・狭井の両神社とも九州王朝との関係が深いようなのですが、大和神社の元々の鎮座地を特定することは難しいようです。

百嶋先生の話の続きです。

それでですね。佐賀の泉の久保(久保泉)から移って移って、移って行って、先ず、四国に渡ります。
その次は「いずみの国」に移ります。大阪の和泉です。
そして、今度は天理に移ります。天理、奈良のですね。要するに移って移って移っての終点。
途中にもありますけど、終点には本物がいっぱいあるんですよ。でも、発表できませんよ。
そして、そこの本物の本物は大国主ですよ。
で、そのぉ、それが何を意味しているかというと、1期の親衛隊長は金山彦。
それからちょっと時代が下がって、2期の親衛隊長は大国主。
そして大国主の家来じゃないけど、伊勢の外宮様なんかも配下として入っていて、九州王朝をお護りするために大変な努力をなさった。
その努力をなさった場所は佐賀の久保泉ですね。

九州王朝初期に親衛隊長として神武天皇をお護りしたのがイスラエル系統の金山彦尊。
その後、中期の親衛隊長が大国主命で、懿徳、孝霊両天皇にお仕えし、当神社では八千戈大神(やちほこのおおかみ)として本殿(向右)に祀られています。
本物の本物と百嶋先生が話されているので、大国主命はこの地まで、市杵島姫とともにやってきたのでしょう。
百嶋先生によれば、大国主命が本当に活躍された場所は関東とのことで、その結果、「武蔵大國魂大神 (おおくにたまのおおかみ)」として鎮座されてるようです。

また、本殿・向左に祀られている御年大神(=ハイキ神=早岐神=波比岐神=贈・孝安天皇)は九州王朝の特務機関長として隠密行動(スパイ活動?)の任に当たっていたとのことで、東遷の際には、軍団の警護に力を注いだものと思われます。

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であれば、中央に祀られている「日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)」とは、いったいどなたなのでしょうか?
やはり神武天皇のことなのでしょうか?

ここに興味深い百嶋系図があります。

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この系図の孝霊天皇には「大和大国魂」と記されていますね。
さらに別の系図には、孝元天皇の横に「倭大国魂」と書かれています。
このことは、どう考えればよいのでしょうか。

思うに「日本大國魂大神」とは神武、懿徳、孝霊、孝元と続く、呉の太白「姫氏」の系統である、(百嶋先生の言葉を借りるならば)「正統皇統」の神霊のことではないでしょうか。
尊い神霊を九州から運んできた。
その途中、所々で「いずみ」の御印を残しながら奈良の地にたどり着き、そこを「新泉」と名付けて終点としたが、何故か、それらのことは史実からすっかり消されてしまっています。
しかしながら、本物の本物は今なお、この朝和の里に眠っているのでしょう。

今一度、「大和神社由緒略誌」を読み返すと、

主神は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)とも申し上げ、地上・地下万物の生育発展、人間及び生物の生命・壽を司り給ひ、日本大八州の国魂に坐す偉大尊貴なる御神格に坐します。

との記述に気づきました。

おそらく、そういうことなのでしょう。

長岳寺の庫裏(重要文化財)では寺料理の「そうめん」を美味しく
いただき、一時の涼に心身ともに和むことができました。
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Posted on 2017/08/12 Sat. 20:00 [edit]

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12

19.奈良・山の辺ラインをちらほらと「大和神社」① 


連休を利用して奈良の地を探索してまいりました。
奈良へは以前、仕事の関係で大阪に赴任していた時以来なので、15年ぶりになります。
当時は京都や大阪方面での仕事が多かったため、奈良にはあまり行かず仕舞いでしたねぇ。
なので今回は、リベンジ的な気持が多少なりともあったかと思います。

だけど、奈良も暑いですねぇ。
刺さるような陽射しに、
「九州よりも暑いじゃん!」って
同行の息子に愚痴が思わず口を衝いて出てしまいます。

今回の奈良入りの最初の訪問は
まずもって「大和神社(おおやまとじんじゃ)」です。
私にとっては、前々からお詣りしたい社のナンバーワンでした。
鎮座地は奈良県天理市新泉(にいずみ)

百嶋先生も講演会で、この地「新泉」に関連して(「肥後翁のblog」から転載)

イズミの話はしました。
もう一つ、イズミとソネ、イズミの出発点は佐賀です。
ソネの出発点は前原のソネ台地、三雲、伊都、そこがソネの出発点です。
このソネとイズミが一緒になって、九州王朝神霊東遷のときに、九州王朝の古い神々をお守りして東へ遷ったのです。
終点は、現在の奈良の天理市、天理王のみこと、天理王のみことは博多の櫛田神社の神様です。そこに到着するまでに、イズミ(佐賀)、和泉(大阪)、最後は、新イズミ、これは現在の天理市です。
一方、ソネ(糸島)、何々ソネ、何々ソネ、終点はやはり奈良です。
とにかくこの二つの系統が九州王朝神霊を大事にお守り申し上げた。
この時の九州王朝神霊御東遷護送団の団長は女性です。圧倒的格式のスサノオのお嬢さんです。イツクシマ神社のイツクシマ姫です。

そして大和神社については、ご自身の資料に「九州王朝の超格式宮」と記されています。

参道入り口の一の鳥居
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道路際に建つ一の鳥居から、鬱蒼とした木々に囲まれた真っ直ぐな参道が奥へと続いています。
折しも、氏子の方々が環境整備をされているようで、参道は作業車などで何やら活気づいていました。

二の鳥居
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やがて、二の鳥居を過ぎると、夏日に照らされた拝殿が見えてきました。
杜を背にした社殿が穏やかに鎮座されています。
旧官幣大社の風格でしょうか、威厳に満ちていますねぇ。

拝殿
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本殿は一間社春日造り。
檜皮葺で同規模の社殿が三社、並列に鎮座されていました。
建物は木階、扉、千木、垂木、鰹木などに金箔押しの飾り金物が施され、重厚な造りの中にも落ち着いた煌びやかさが心地よく伝わってきます。
千木は三社とも外削り(男神)でした。

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百嶋先生は生前、この大和神社と親交が深かったようですね。
事前に連絡していたこともあり、宮司さんは既に境内で待っておられました。
簡単なあいさつの後、拝殿でご祈祷をしていただき、大神の御前に玉串を捧げることもできました。
思ってもいなかった神事でのおもてなしに痛み入るばかりです。

神社資料(大和神社由緒略誌)によると祭神は、
 
 日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ) : 中央
  (=大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)) 
 八千戈大神(やちほこのおおかみ)        : 向右
 御年大神(みとしのおおかみ)          : 向左

当社発行の「大和神社歴史の変遷(平成29年3月発行)」)には、

【大和神社について】
 大和神社の祭神日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は、第十代崇神天皇により国土(土地)の守護神として、皇祖神天照大神(ああてらすおおかみ)と共に瑞籬宮(みずがきのみや。桜井市金谷付近とつたえられる)の大殿(皇居)内に並斎されていましたが、両神の勢いを畏れ同じ殿内に居ることに不安を覚えた天皇は、二人の内親王、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を斎王として天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)に、渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に大和大國魂大神を託されてお祀りになられました。
 しかし、渟名城入姫命は髪が抜け、やせ細って祀ることができなくなったと崇神天皇の条で日本書紀は伝えていますが、大和神社の場所は記載されていません。
 前者が伊勢神宮、後者が大和神社の始まりとされています。

【垂仁天皇の御代に現れた大國魂大神について】
第十一代垂仁天皇二十六年十月天照大神を伊勢に遷宮された時、大和大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)が大水口宿禰(おおみなくちのすくね)の夢に出て言われるのは、「初めの約束は、天照大神はすべての天原(あまのはら)を治め、代々の天皇は葦原中国(あしはらなかつくに 日本の別名)の諸神を治め、自分は自ら地主の神を治めることであった。先皇は神祇をお祀りになったがその根源を知らず云々」と祀り方に不満を述べられたため、渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)に命じて、神地を穴磯邑(あなしむら)に定め、大市の長岡岬(ながおかみさき)にお祀りなされた。しかし、渟名城稚姫命も髪が抜け、痩せ細って祀ることができなかったので、大倭直(おおやまとのあたい)の祖、長尾市宿禰(ながおちのすくね)に命じてお祀りされたとのことです。

(中略)

「大和神社の神々」
 当初は、日本大國魂大神一座が祀られていたものと考えられますが、延喜式神名帳には三座とありいずれも名神大社と記されていることから、延喜年間(901~923年)には三座が祀られていたことになります。倭大國魂大神以外の二座については、諸説あるようですが、現在は「大倭神社注進状(平安末期の1167年に大倭神社の祝部大倭直歳繁が国司宛てに提出したもの)」に従って、中央本殿に倭大國魂大神、向かって右殿に八千戈大神(やちほこのおおかみ)、左殿に御年大神(みとしのおおかみ)が祀られています。
 日本大國魂大神は、「大倭神社注進状」によりますと、大己貴神(おおなむちのかみ)の荒魂(あらみたま)で大地主神(おおとこぬしのかみ)とも言い、八尺瓊(やさかに。玉の意)を御神体としています。

(中略)

山上憶良が遣唐使の航海の安全を、この神に祈ったことは、当社の祭祀氏族である大倭直氏が関係しています。
「新撰姓氏録」によりますと、大倭直氏は神武東征の時、水先案内者として登場する海人族の椎根津彦(しいねつひこ。日本書紀では豊後水道、古事記によれば明石海峡に最寄りの地を本貫とした)を祖としており、その後、大和国造(やまとのくにのみやつこ)に任じられ、天武朝に宿禰(すくね)姓を賜った氏族です。
 その海人族が祀る神として倭大國魂大神は山上憶良の時代になっても航海神としての神格を保持していたものと思われます。
「日本の神々(白水社刊)」には、「大倭直氏は大和宿禰として奈良時代を通じて当社の祭祀を司り、平安時代に入っても一族の名が国史に散見されるが、中世には史上から姿を消しました。おそらく火災のあった永久6年の頃を境として衰えていったのではないか」と記されています。
(以下、略)
と記述されています。

神社由緒や宮司さんの話などから、本殿の中央に祀られている大和大國魂大神については、大国主命、あるいは祭祀を司ってきた一族の祖である椎根津彦と考えておられるようです。
ただ、右殿には八千戈大神として大国主命が祀られています。
なので、本殿に同じ神が並んで祀られるということは、どうにも考えにくいですね。
また、椎根津彦も水先案内人なので、両神を従えるように中央に祀られるということもないのではなかろうかと思います。

では、日本大國魂大神とは?

そう言えば、百嶋先生と古川氏(ひぼろぎ逍遥)との対談(懇談?)の中で、こういったやり取りが残されています。

古川氏)「伊勢神宮は何で、奈良からあんな外れた所に置かれたのですか?」

百嶋先生)「これはですね、ユダヤ・イスラエル系を中心とした一派が、(すなわち)高木大神を中心とした一派が、そのぉ、この人、呉の国の太白王の系統と対決するんですよ。思想的に。なぁーに、あの、五、六人の奴らのために、自分たちが拝む必要があるのか、ということで、高木大神にとっては従兄妹である天照大神(イトコと思います)の方を現在の天理市から切り離して、連れて行くんですよ、伊勢の方へ。魂を連れて行くんですよ。」

古川氏)「追い出した、ということですか?」

百嶋先生)「連れて行くんです。元々はですね。天理の大和神社に祀られていた天照大神、元々は。それを引っ張り出して、伊勢の方に移したんですよ。」

古川氏)「邪魔だった、からということですか?」

百嶋先生)「ずばり言うて、こっちの系統のですね、直系である神武天皇が気にくわんというわけですね。そして、そのぉ、高木大神は自分の息子のニニギを天孫なんかと言い出したわけですよ。」

古川氏)「…」

百嶋先生)「ところが、威張りすぎたもんですから、高木大神の本家筋にあたる大国主の方が怒っちゃった。大国主はですね、九州王朝を守って、そして、自分の家は潰して、九州王朝から養子を迎えたんですよ。それが現在の、大三島神社、オオヤマツミ神社です。」


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つまり、百嶋系図では、大日女貴(オオヒルメムチ=天照大神)の父は姫氏なのですが、母は高木叔母であるため、天照大神は高木大神の一族であるとも言えます。
一方、神武天皇の御父は天照大神と同じ姫氏(列島・大率)なのですが、御母は白川伯王(奴国王)の御子である(神)玉依姫(かむたまよりひめ)であり、高木大神一族とは相容れない関係であったようです。
ですから、天照大神の御霊は大和神社から追い出されたわけではなく、高木大神の一族によって連れ出され、伊勢の地で奉斎されたということのようです。

ということは、大和神社の中央に祀られている大神は、やはり、神武天皇と考えてもよいのでしょうか
そこのところは、百嶋先生は(無用の混乱を避けるため?)普段の講演会では明言をしなかったようですが、リラックスされた対談の中で、先生の奥深い知見の一端がキラリと光を放ったかのようでした。

おそらく、先生には、真実の大和神社の歴史の変遷がくっきりと見えていたのでしょう。

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【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」をご覧ください。】


Posted on 2017/07/28 Fri. 23:30 [edit]

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18.【神武天皇伝承】早吸日女神社③(大分市佐賀関)  


早吸日女神社について、大分の神々(昭和49年 高原三郎 著)」からの引用です。

三柱の筒男即ち住吉三神は諸神の濯ぎ祓いの時、水に入って吹き生した神であり、大地海原諸神=三柱の少童神即ち綿津見三神は、水を出でて吹きだした神である。
なお、八十枉津日神=大綾津日命=瀬織津姫命という説や、大直日神=神直日神=気吹戸主神という説が記録されている。
(中略)
要するにこの六神の名は諸神が泉国(ヨモツクニ)を見て不祥(サガナシ)となり穢悪(ケガレ)を濯ぎ除(ハラ)わんとした橘之小門の檍岐原(アワギガハラ)の地主神(ツツノオノカミ)たる大綿津見神の功徳を賞賛したものである。
中世では六所大権現と称した。
この地を領した各領主が何れも深く尊崇した。
(中略)
これと同系統または類似の社の(大分)県下の分布は次の通りであるが、本社の佐賀関と南部地方以外は、ほとんど山中部に存在するという興味ある分布を示している。

そして祓戸六神など、同系統または類似のものとして36社を掲載しています。
この中から、早吸日女(速吸姫)を奉斉している社や早吸日女神社と関係の深い「関神社」などを抜き出してみますと、

【海岸地域】
・早吸日女神社:大分市佐賀関  :八十枉津日神、大直日神、大地海原諸神、住吉三神
・六柱神社  :大分市佐賀関  :八十枉津日神、大直日神、大地海原諸神、住吉三神
・早吸日女社 :佐伯市蒲江町  :住吉三神

【中山間地域】
・関大神社  :国東市安岐町  :瀬織津姫命、気吹戸主命、早秋津姫命
・早吸日賣神社:大分市旦野原  :住吉三神、(底津,中津,上津)綿津見神
・関社    :佐伯市宇目町  :早吸姫命(八柱神社 境内社)
・向原神社  :豊後大野市三重町:早吸姫命 外
・年神社   :竹田市玉来   :速吸姫命 外
・二柱社   :竹田市玉来   :速吸姫命(主神) 外
・天満社   :竹田市松本   :速吸姫命 外
・早吸社   :竹田市入田   :大綾津日命、大直日神、大地海原諸神 外
・権現社   :竹田市久住   :速吸姫命 外
・六柱社   :竹田市植木   :大綾津日命、大直日神、大地海原諸神 外
・関社    :九重町松木   :関大権現(主神)
・八幡社   :日田市西有田  :早吸日女神 外
・平野社   :日田市有田   :早吸日女神、天照大御神、大宮賣神、宇賀魂命
・大山祇社  :日田市東有田  :早吸日女神 外
・関社    :日田市大肥   :早吸日女神(天満社 境内社)
・金山神社  :日田市夜明   :早吸姫命、須佐之男、大己貴命
・関神社   :日田市田島   :早吸日女神(大原八幡宮 境内社)
・関神社   :日田市天瀬町  :早吸姫神(主神)

となっています。

やはり、日田市、竹田市を中心とした中山間地域に集中してますねぇ。 
ということは、早吸日女神は漁業や航海を生業とする海部の人々と、必ずしも強い結びつきは無いものと考えて良さそうですね。

大分市旦野原に鎮座する早吸日賣神社
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モダンな造りが新興住宅地と良くマッチしている。
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祭神は底筒之神、中筒之神、表筒之神のいわゆる住吉三神
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神紋は十六葉菊
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境内の石祠
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ならば、早吸日女(速吸姫)とは?

岩手県遠野市附馬牛町の早池峰山に鎮座する「早池峰(はやちね)神社」の祭神は「瀬織津姫」であり、「風琳堂主人」は、

【大昔に女神あり】
四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯[はやちね]という、北の方附馬牛[つくもうし]の奥にあり。東の方には六角牛[ろっこうし]山立てり。
石神[いしがみ]という山は附馬牛と達曾部[たっそべ]との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来内[らいない]村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫目覚[めざ]めてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。
若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもうゆえに、遠野の女どもはその妬[ねた]みを畏[おそ]れて今もこの山には遊ばずといえり。(『遠野物語』第二話、『柳田國男全集』所収)
 ここには、遠野三山と呼ばれる早池峰山、六角牛山、石上(石神)山に「若き三人の女神」が住んでいる(「領したもう」)とある。
また、その「三人の女神」の「母の神」は「今の来内[らいない]村の伊豆権現の社」に留まったとされる。
早池峰山は早池峰神社、六角牛山は六神石神社、石上山は石上神社、そして伊豆権現社は現在の伊豆神社と、それぞれの神の拝所・祭祀場としての神社が現在もある。
昭和十四年に発行された『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会)には、上記神社がまつる神々は、次のように記録されている。

■遠野三山の神々と「母の神」の社
早池峯神社……瀬織津姫命
六神石神社……大己貴命、誉田別命
石上神社 ……経津主命、伊邪那美命、稲蒼魂命
伊豆神社 ……瀬織津姫命

遠野三山には「若き三人の女神」がいると記していた『遠野物語』だったが、六角牛山からは「女神」の存在は消えているようである。
また、石上山にしても、「伊邪那美命」はたしかに女神だが、伊豆神の娘神とは認められないので、この山からも、物語の女神は消えているとみてよい。
残るは早池峰山で、この早池峰山神と伊豆神として記載される「瀬織津姫命」という神が、この「特集」の中心となる女神である。(以下、略)

と述べられています。

遠野三山の三女神像(伊豆神社所蔵):風琳堂主人
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瀬織津姫櫛稲田姫と同神と考えられるので、この早池峰神社の祭神もスサノヲの后、櫛稲田姫のことで良いと思われます。
「早吸日女(はやすひめ)」と「早池峰(はやちね)」。
何となく、語感が似ていますねぇ。
なので、「早吸日女」も櫛稲田姫と同一神と考えたくなりますねぇ。

そう言ったことに思いを巡らせていたところ、
百嶋神社考古学研究会のメンバーでもある、U女史から貴重な情報が伝えられました。
何というタイミングの良さでしょうか。
U女史に感謝です。

それは、百嶋先生が講演会で使用した手書きの資料の中に鴨玉依姫の別名として、「早吸日女」が記載されていたというものでした。
そして、講演会で撮影したという写真も郵送していただきました。


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なるほど、鴨玉依姫は、早吸日女であり、林姫でもあったのですね。
それで、速吸瀬戸などの海岸部とは関係なく、中山間部にも多く鎮座されているのでしょうか。

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佐賀関の早吸日女神社では鴨玉依姫は当社の祭神からは消されていますが、夫神である大直日は祭神として祀られていますし、子供の椎根津彦、さらにその子供の黒砂、真砂は摂社として境内に鎮座しています。
そして、当社近くに鎮座する椎根津彦神社には子供とされる椎根津彦が祀られいます。

当社は、西暦701年(大宝元年)に古宮から、現在地の素娥(そが)の地に遷られていました。ね。
この西暦701年は古代史にとって、とても重要な意味ある年のようで、それまで続いていた九州年号の終焉の年とも伝えられています。

この九州年号と関係の深い九州北部には、蘇我氏(物部氏も同様)がかって活躍していたとの伝承が今も色濃く残されています。

蘇我氏について、ウイキペディアでの記載の一部です。

【蘇我氏は九州倭国の皇室】
以下のことから蘇我氏とは九州倭国の天皇家のことであったと考えられる。
・蘇我稲目以前の蘇我氏の先祖が分からない。
・新参の蘇我氏が何故、短期間で権力を掌握できたか分からない。
・蘇我氏は、渡来人の集団を支配し進んだ知識や技術を持っていたとされている。
・当時、畿内地方で唯一蘇我氏だけが仏教を崇拝していたとされている。
・蘇我氏の名は、馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿になることや蝦夷など、実名ではないと考えられる点がある。
・蘇我蝦夷の邸宅が「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅が「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼ばれていた。
・蘇我入鹿の子らが親王の扱いを受けていた。
・『国記』、『天皇記』といった皇室が代々受け継ぐべき史書を蘇我氏が所持し邸宅で保管していた。
・物部守屋を「丁未の乱」で滅ぼしている。物部氏は、「磐井の乱」で“長門”以西を支配することを認められた天皇家に次ぐ大豪族である。ナンバー2の豪族は皇権最大の危険要因であり、これを除く事は皇室として自然な行為である。また、蘇我氏が天皇家であり支配者だったからこそナンバー2の大豪族である物部氏に勝つことができたのである。


佐賀関を始めとする大分県内の早吸日女神社、それから大分県の外、兵庫県や富山県にも鎮座する林神社には元々、鴨玉依姫が主祭神として祀られていたのでしょう。
しかしながら歴史の波に翻弄され、蘇我氏などの、その時々の有力氏族の影響を強く受け続けた結果、入れ替わる舞台劇の役者さながらに祭神の交替が行われてきたのでしょう。
もちろん、それは何らかの意図があってのことと思われます。
そして、それぞれの社には、謎多き伝承をまとった由緒が真しやかに、今に、伝えられているということなのでしょうか


【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」をご覧ください。】

Posted on 2017/05/27 Sat. 23:31 [edit]

category: 日記・古代史

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