04 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 06

ひとつあがりのカフェテラス

古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

26.夜明け前のスケッチブック② 「大元神社」(大分県宇佐市御許山) 


800omoto4.jpg 

   宇佐神宮の奥宮にあたる御許(おもと)山「大元神社」。
 
【祭神】
  比賣大神(ひめおほかみ)
   ┗多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)
   ┗市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
   ┗多岐都比賣命(たきつひめのみこと)  
 
 宇佐神宮の縁起は複雑でいろいろな学説があるのですが、宇佐氏・辛島氏・大神氏の三氏族が宇佐神宮の成立に深く関係していたことは間違いないことなのでしょう。
 
 「宇佐宮と辛島氏(生山和四郎 著)」によると、スサノオを始祖とする辛島氏が稲積山の頂上部に霊域を設けて北辰と三女神を奉祀したことに対し、ここ御許山に宇佐氏が三女神を祀ったとのことです。
 
 さらに同書には、
 筆者は、辛島氏が祖神とする三女神と守護神の北辰を「辛国宇豆高島」(稲積山)から、そして宇佐氏が同じく三女神と北辰を「馬城峰(まきみね)」(御許山)から亀山に移座して、両氏族の氏神が合祀された時を宇佐宮の起源とする。そしてその時から三女神を統べて一神体として比売大神と呼称するようになり、北辰は脇侍の神に退いたのではないかと考える。
と記述されています。

 それから、当社は宇佐神宮の「奥宮」であって「元宮」ではないようなのですが、そのためか、「八幡神」は祀られていません。つまり「八幡神」は後からやって来ているのです。

 百嶋氏は講演会でこのように話されています。

 さて、宇佐神宮です。元々、宇佐とは八幡宮ではなく、宇佐神宮です。
 元は応神天皇よりも宗像三姫君のほうが上なんです。今盛んに、第一宮(応神)、第二宮(三女神)、第三宮(神功皇后)といっているのは高木の大神の系統の連中が言っていたことをそのまま受け取って、えらく威張って応神が偉いように言ったことです。
 そして、重要なことはそれぞれに後見人がついていらっしゃる。赤い真ん中の姫三神の後見人は同じ赤の北辰様(別名、天御中主、別名、白山姫)、応神天皇の後見人は海幸彦(ここでは春日大神)、一番右の神功皇后(ここでは神功となっているので神功でゆきます)の後見人は住吉です。 
 最初の住吉は別ですが、現在は住吉といえば開化天皇です。神功皇后は贈仲哀天皇のお妃であった時期はほんの僅かで神功があの世に行かれるまで、ダンナさまは開化天皇です。
 そのことを一番的確に書き記しているのは那珂川町にある在るお宮さんです。神功皇后の年齢まで判る。天御中主神社。今でも神功の本当の神社がここ那珂川町に在って、それを少し、さば読んだのが大阪の住吉宮で、その中間に本物がある。瀬高町の玉垂宮です。そこに本物の本物がある、それは、開化天皇は五・七の桐です。神功皇后は五・三の桐です。

800usaguu.jpg 

 百嶋系図では、北辰は天御中主(アメノミナカヌシ)その人であり、別名、白山姫とも呼ばれています。なので、ここ御許山中腹にも白山神社が当然のように鎮座しているのです。

 「宇佐宮と辛島氏(生山和四郎 著)」に記載されている亀山(亀山古墳)は宇佐神宮と同じ場所にあり、亀山古墳の石棺の所在地が宇佐神宮の本殿のようです。
 亀山の頂上に、一之殿・二之殿・三之殿の神殿が建立されており、この二之殿と三之殿の下には石棺が埋まっている(「おおいたの古墳と神社(松尾則男 著)」)ということです。
 また、宇佐家の口伝には「御量石(みはかりいし)」のことが伝わっているとのことです。この「御量石」は世の盛衰を占うというもので、石棺の蓋であり、二之殿の真下にあるということです。

宇佐神宮を頂点として位置する御許山と稲積山。
御許山から雲ヶ岳へと続くラインは、ストーンサークル(佐田京石)を擁する
米神山に繋がっている。
 800omototizu222.jpg

大元神社 拝殿
800omotohaiden.jpg 

拝殿奥の「奥宮」と記された鳥居
800omoto3.jpg 

鳥居の前には有刺鉄線が張られ、向こう側は禁足地となっています。
800omototorii1.jpg 

奥宮と向かい合うように鎮座する八坂神社800omoto2.jpg 

大元八坂神社の社殿
800oomotoyasaka.jpg 

奥宮の左手奥に鎮座する水神
(一年中、涸れることなく流れる御神水「三鉢の水」)
800omoto5.jpg 

境内入り口には御神木の大銀杏がどっしりと構え、聖域を見守ってくれています。
800omoto1.jpg 

 御許山・大元神社へは、日豊本線の西屋敷駅近くから林道を通って車でも登ることができるようですが、悪路であり、途中、危険な箇所もあるため、安心院と宇佐を結ぶ県道658号線から入っていくルートの方がお薦めです。
 御許山の中腹に車を駐め、緩やかな登り道を30分ほど進むと、神社参道にたどり着きます。
 境内は手入れが非常に行き届いていて、静寂さの中に、厳かで清々しい気が凜と張りつめています。

御許山と峰続きの雲ヶ岳(標高654m)
800kumodake1.jpg 

豊後高田市や周防灘が一望できる雲ヶ岳山頂
800kumodake2.jpg 

御許山中腹に鎮座する白山神社(祭神:白山姫)
800omotohakusan1.jpg 

白山神社拝殿
800omotohakusan5.jpg 

拝殿破風に飾られている「日負い鶴」紋と十六葉菊紋
800omotohakusan2.jpg 

日負い鶴」を意識するかのうな拝殿裏の神木
800omotohakusan3.jpg 
 

Posted on 2018/05/07 Mon. 23:30 [edit]

category: 日記・古代史

TB: --    CM: 0

07

25.ウマシアシカビヒコヂを祀る霧島神社(大分県佐伯市直川)② 

 霧島神社が鎮座する佐伯市直川には東九州自動車道の佐伯インターで降りてバイパスに入り、番匠大橋方向へと進みます。
 大橋の手前で国道10号線と合流するのですが、国道は佐伯駅方面から延びてきた日豊本線に誘われるように佐伯市入り口で大きく舵を西に切り宮崎県境へと向かい始めます。
 大橋を渡り、しばらく車を走らせると直川に入り、ほどなくして直見駅に到着です。
 ここから国道は番匠川の支流 久留須(くるす)川に沿って、鉄道と絡み合うように、急峻な宗太郎峠を一路、目指して行きます。

 直見駅を過ぎ緩やかな坂を越えると、霧島神社が鎮座する下直見地区です。
 神社は国道近くまで迫り出している平野山の中腹に位置し、山裾には一の鳥居が国道と線路に対峙するように建てられています。

鳥居の前を走り抜ける特急「ソニック」
800soniku.jpg 

鎮座する平野山は古墳?
800torii1.jpg 

いつごろの創建なのか、詳しい由緒は不明。
800haidennai_2018041522361602c.jpg 

貴重な資料を拝見させていただきました。
800ujiko.jpg 

 (旧)直川村は、直見村と川原木村の二村が合併し誕生したもので、名前もそのものズバリ、合わさっていますね。その後、直川村は南海部郡の他の町村とともに佐伯市と合併しています。

 それにしても、「直見(ナオミ)」の地名も気になりますねぇ。
 それは、この地に「霧島」と呼ばれる神社が何故、残されているのかと同じくらいに気になります。
 元来、「み」のつく地名は、「熱海」「渥美」と同じように「安曇(あずみ)族」との関係が深いのですが、大分県内でも宇佐市院内町の温見(ぬくみ=あつみ)や地名由来の元となった「安心院(あじむ)」などがよく知られています。そう言えば、佐伯市の隣は「津久見市」でした。「津久見」をおそらく、安曇族との関連が深いのではないでしょうか。

 (旧)直見村の「ナオミ」の地名の由来について、直川村誌(直川村誌編さん委員会 平成9年発行)には、豊後武士団の棟梁 緒方惟栄(おがたこれよし)らに追われた平家一門の光世・光国兄弟の説話(「大友興廃記」に記載)が紹介されています。
 これによれば、佐伯表から野を分け山を越えて逃避行を続ける兄弟が夜分、ソバの花が一面に咲く、真っ白なソバ畑を海と見間違い、光世が「なおうみ」かと問うたことから「猶海(なうみ)」と呼ばれるようになったとのことですが、本村誌の筆者自身、この説話には疑問を呈しています。
そうでしょうねぇ。
いくら手傷を負っていたとしても、また連続する戦で疲労困憊していたとしても、やはり、ソバ畑を海と見間違えることはないと思われますね。

一方、宇佐家伝承の口伝には、

神武東征の折、神武天皇がひきいる舟軍は、豊後水道から佐伯湾に入り、その沿岸ならびに番匠川の流域に駐留して、軍兵の休養と物資の補給をしようとしたが、直美(今の大分県南海部郡直川村)を拠点とし、タジヒナオミ多遅比直美)を首長とする菟狹族海部のはげしい抵抗にあって上陸できなかった。
そこへ、漁師のウヅヒコ珍彦)という者が菟狹族の宗主ウサツヒコに帰順を説得し、神武東征軍と折衝の結果、菟狹族の本拠に神武天皇を迎え、軍兵は宇佐川の流域に駐屯することとなった。

とあるようです。
 
 この口伝によれば、神武天皇も海部の湊にすんなりとは入港することができなかったようですね。そして、ここに登場する「タジヒ(多遅比=丹比=多治比)ナオミ」は菟狹族とのことですが、おそらく直見の地名のおこりと関係があると思われます。

 百嶋神社考古学では、神武東征の物語は(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとしていますが、大分県南部のリアス式海岸一帯には神武天皇に纏わる伝承が事細かに今も数多く残されており、「ウエツフミ」の中で記載されている内容と考え合わせると、タジヒナオミ」の存在はとても気になるところです(ブログNo1.神武天皇と金山彦尊をお祀りする佐伯市蒲江「伊勢本社」 参照)。

そして、「霧島」という社号。
「霧島山」の名称のおこりについては、いくつか説があるようです。
以下、「神々のやどる霧島山(森田清美 鉱脈社)」からの引用。

 第一説に、天孫降臨の時、霧が深いので物や色が分からなかったので、稲穂を投げ散らかしたら霧が晴れた。そのため霧島という。
 第二説に、皇孫が天降の時、島のように見える物があった。そこで天之瓊矛(あめのぬぼこ=天沼矛)でかき探り、そこに降り、天の逆矛を建てられた。そのことから霧島という名が出てきた。
 これに関連して、雲霧の都城の広野から高千穂峰の山腰(さんよう)を覆っている時、その中に二峰が現れ、浮いた島のようである。霧島の名はこれから出たともいう。『三国名勝図会(天保14年編纂)』巻之五十八「霧島嶽」の項に「当邑(都城郷)の地は、雲霧常に深く、朝夕山麓を擁し、其の平田沃野(へいでんよくや)、宛(あたか)も海の如し、因って雲海と号す、霧島の名も、是れより出づといへり」とある。これは、この第二説を補強する説である。
 第三説に、天孫が稲穂を取り払われたら、雲霧が晴れた。これより霧島の名が起こったという。しかし「図会」は、霧島という名は、それ以前からの名で、稲穂の縁で高千穂峰と呼ばれるようになった。旧称にそぐわないのではないかと述べる。
 このことについて本居宣長は『古事記伝』で、伊耶那岐命(伊弉諾尊)・伊耶那美命(伊弉冉尊)が天の浮橋より、霧の海を見下ろしたところ、島のようなものが見えた。そこに天沼矛でかきさぐり、そこに降りて、その矛を逆さまに立てた。霧島山というのは、ここに由緒があるのだと述べる。天孫降臨より、神代の古い時代から霧島の名があったのだという。しかし、実際に霧が深いところだということから霧島という名が 付けられたのだという説が有力である。
 (中略)
 霧島神は、大隅・薩摩から日向に勢力を伸ばした戦国大名島津氏が戦の神としてその霊威を高めていった。
 (中略)
 民間では、地域神として農神あるいは厄災を除く神、あるいは子供を守る神など多彩な信仰が展開されたいった。
 霧島山は火の山であると同時に、水の恵みを与える水分神(みくまりしん)でもある。各地に遙拝所や霧島塚などが設けられ、霧島講による代参講なども盛んになっていった。山麓の村や家では「霧島様」という山神や武神、祖霊神を祀っている所は多い。
 (中略)
 霧島山の信仰圏は広く、宮崎県や鹿児島県をはじめ、熊本県や大分県にまで及んでいる。

 それから、霧島には霧島山を囲むようにして、宮崎県と鹿児島県の県境に霧島六社権現と称される6つ神社(霧島神宮、霧島岑神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀。)、狭野神社、東霧島神社、霧島東神社が鎮座しています。この霧島六社権現は性空上人(しょうくうしょうにん(910年-1007年))と関係が深いことでも知られていますが、性空上人は霧島での修業のあと,湯布院,脊振山,英彦山でも修業されたと伝えられており、各地に霧島の名のつく神社が残されています。
 そう言えば、湯布院町には、性空上人が由布岳の山腹に庵を結び、岩に観音像を刻して祀ったとの伝承があり、関係する(と言っても、大元の佛山寺は地震で倒壊後、再建されたが火災で焼失。後に湯布院町川上に再建された。)お寺が今なお、残されているようです。また、同町川上の宇奈岐日女神社(六所宮)や塚原の霧島神社なども関係の深い聖地であったようです。

 因みに、宇奈岐日女(うなぐひめ)についてはウナギとは全く無関係であり、百嶋神社考古学では高木大神の御子、豊(速)秋ツ姫とされています(詳しくは古川氏のブログ「143 湯布院温泉と言えば宇奈岐日女神社 ③  “宇奈岐日女は高木大神の孫娘だった”」を参照してください)。

800toyoakitu.jpg 


  800unguhime.jpg 

「宇奈岐日女神社」
 現在、宇奈岐日女は祭神として名前を連ねていませんが、その昔、間違いなく
この地におられました。社殿は淑やかで品格があり、落ち着いた神社ですね。
800unagumon.jpg   DSC03446.jpg

800unagu2.jpg   DSC03430.jpg

800sugi.jpg 

 結局、霧島の名は神代の古い時代からあったということですから、その名のおこりについて、あれこれと考えをめぐらせても、あまり意味がないということなのでしょうか。

 霧島は熊襲の拠点。
 百嶋氏も熊襲の中心人物は大国主の命のご先祖だと話されています。

 百嶋神社考古学では、大国主の父は大山祇神、そして祖父がウマシアシカビヒコヂ(金越智)、さらに遡れば、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王 金首露王にたどり着きます。

800ookunisosen.jpg 

 なるほど、直川・霧島神社の祭神ウマシアシカビヒコヂは熊襲の中心人物であったわけですが、だとすれば、「霧島神」とはウマシアシカビヒコヂ、あるいは、その祖神のことなのでしょうか?

 内倉武久氏の「熊襲は列島を席巻していた(2013年 ミネルヴァ書房)」によると、熊襲の意味について、「クマ」という言葉には「神」という意味があったと述べられています。故に、「熊」には「神聖な」という意味があったということです。
 中国でも古代から「熊」の字には動物のクマ以外に「あざやかに光るさま」を表現する言葉でもあったそうで、周代(紀元前1100年ごろ~前256年)の楚国の王や紀元前の呉(旬呉)の君主にも「熊」の字が入れられた名前がつけられていたようです。
 さらに、内倉氏は、「熊襲」は、本来であれば「熊曽於」と表記されるべきであり、その理由として「神聖な氏族・ソオ」の意味であるからと述べられています。

 今回、宮司とともにに氏子の方々にも協力していただき、古くから残されている貴重な資料などを拝見させていただきましたが、何故に「霧島」という社号がつけられたのかは残念ながら明らかにすることはできませんでしたし、当社と性空上人との関係も見出すことはできませんでした。
 一方、氏子の方のなかに、「曽宮」さんというお名前の方がおられ、代々、この地に住まわれ、今も地区のお世話役をされているということでした。おそらく、長い間、曽於の宮」である当社をお守りしてきたものと思われましたが、関係を示す資料や言い伝えなどは残されていないとのことでした。

 当社が鎮座する平野山の山頂付近にはかって「洞免寺」というお寺が建っていたとのことで、礎石が今も残されているようです。
 「霧島」と「洞免(あるいは堂免)」という地名については、セットで鹿児島県をはじめ、宮崎市内にも存在しています。何かしら、意味があるのでしょうか。此処らあたりが何かしらのヒントになるのかもしれませんねぇ。

 思うに往古、各地の霧島神社には「ウマシアシカビヒコヂ」などの大国主の祖神が「霧島神」として祀られていたのではないでしょうか。それが、韓神ということや、あるいは「狗奴国の乱」の影響もあったのでしょうか、次々と消されていったように感じられます。
 先のブログで紹介した群馬県の赤城神社もそのケースですが、大分市の「鉾神社」も旧称は「霧島大明神」といい、以前は霧島神を祀っていたようですね。
 
 祭神については、神社のパトロンなどの時の権力者や社会情勢によって、時勢のニーズに合った神々に上書きされてきたケースがとても多かったように思われます。
 
歌川国貞(三代目歌川豊国)「大社縁結図(たいしゃえんむすびず)」
神無月(旧暦10月)に出雲大社に集まった神々の姿を描いた浮世絵
(客人権現=ウマシアシカビヒコヂ)
800ezu.jpg 

 次回からは、直川・霧島神社を取り巻く周辺の神社について、ボチボチとですが、紹介していこうと思っています


Posted on 2018/04/25 Wed. 23:00 [edit]

category: 日記・古代史

TB: --    CM: 0

25

24.夜明け前のスケッチブック①「不動岩」(中津市耶馬溪町大字深耶馬) 


先日、深耶馬溪のモアイ像とも称されている「不動岩」まで出かけてきました。
宇佐市院内町から岳切渓谷(たっきりけいこく)を目指して出発。
目的地は耶馬溪町深耶馬 大城(だいしろ)。

途中、山陰の道路沿いには昼間でも解けきらない雪が所々、固まりとなって残っています。
岳切渓谷(たっきりけいこく)側から町道に入り、大城隧道を過ぎた辺りで車を駐めると左手に小高い丘を見つけることができます。

800hudouiwa.jpg 


この丘の上に不動尊像に似た巨石が載っかっていました。
どこか寂しそうにも見えますが、遙か彼方を見据えているかのようです。

800hudou1.jpg 

800hudou5.jpg 

800hudou4.jpg 

頂上まで続くクヌギ林を抜け、少しばかり息を切らしながら丘を登って行くと不動岩にたどり着くことができました。
それにしても奇巌怪石、確かに「モアイ像」にも似ています。

800hudou2.jpg 

800hudou11.jpg 

600hudou10.jpg 


不動岩周辺は耶馬溪溶結凝灰岩(高温の火山灰が大量に堆積し、その重さと高温のために圧縮されて粒子の一部が溶けてくっつき合い、溶岩状になった岩石)の広大な高原がつづいていて、さながら天然の要害のようです。

また、この付近は重要な祭祀場でもあったようです。
往古、ヒミコがこの地域一帯で活動していたと伝えられており、当然、この場所でも祈りをささげていたことでしょう。

さらに、もう一つ、気になることがあります。
「大城」という地名。
「だいしろ(たいしろ)」と読ませているため、かって、この地に大きな山城でもあったかのようですが、中津市教育委員会によると、そういった事実は無く、伝承なども残されていないとのことでした。
では何故に「だいしろ」と呼ばれてきたのでしょうか。

「だいしろ」を「台城」などど書けば、何やら幻の邪馬台国の姿がこの高台の地にじんわり浮かんでくるようですね。


Posted on 2018/02/27 Tue. 21:00 [edit]

category: 日記・古代史

TB: --    CM: 0

27