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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

18.【神武天皇伝承】早吸日女神社③(大分市佐賀関)  


早吸日女神社について、大分の神々(昭和49年 高原三郎 著)」からの引用です。

三柱の筒男即ち住吉三神は諸神の濯ぎ祓いの時、水に入って吹き生した神であり、大地海原諸神=三柱の少童神即ち綿津見三神は、水を出でて吹きだした神である。
なお、八十枉津日神=大綾津日命=瀬織津姫命という説や、大直日神=神直日神=気吹戸主神という説が記録されている。
(中略)
要するにこの六神の名は諸神が泉国(ヨモツクニ)を見て不祥(サガナシ)となり穢悪(ケガレ)を濯ぎ除(ハラ)わんとした橘之小門の檍岐原(アワギガハラ)の地主神(ツツノオノカミ)たる大綿津見神の功徳を賞賛したものである。
中世では六所大権現と称した。
この地を領した各領主が何れも深く尊崇した。
(中略)
これと同系統または類似の社の(大分)県下の分布は次の通りであるが、本社の佐賀関と南部地方以外は、ほとんど山中部に存在するという興味ある分布を示している。

そして祓戸六神など、同系統または類似のものとして36社を掲載しています。
この中から、早吸日女(速吸姫)を奉斉している社や早吸日女神社と関係の深い「関神社」などを抜き出してみますと、

【海岸地域】
・早吸日女神社:大分市佐賀関  :八十枉津日神、大直日神、大地海原諸神、住吉三神
・六柱神社  :大分市佐賀関  :八十枉津日神、大直日神、大地海原諸神、住吉三神
・早吸日女社 :佐伯市蒲江町  :住吉三神

【中山間地域】
・関大神社  :国東市安岐町  :瀬織津姫命、気吹戸主命、早秋津姫命
・早吸日賣神社:大分市旦野原  :住吉三神、(底津,中津,上津)綿津見神
・関社    :佐伯市宇目町  :早吸姫命(八柱神社 境内社)
・向原神社  :豊後大野市三重町:早吸姫命 外
・年神社   :竹田市玉来   :速吸姫命 外
・二柱社   :竹田市玉来   :速吸姫命(主神) 外
・天満社   :竹田市松本   :速吸姫命 外
・早吸社   :竹田市入田   :大綾津日命、大直日神、大地海原諸神 外
・権現社   :竹田市久住   :速吸姫命 外
・六柱社   :竹田市植木   :大綾津日命、大直日神、大地海原諸神 外
・関社    :九重町松木   :関大権現(主神)
・八幡社   :日田市西有田  :早吸日女神 外
・平野社   :日田市有田   :早吸日女神、天照大御神、大宮賣神、宇賀魂命
・大山祇社  :日田市東有田  :早吸日女神 外
・関社    :日田市大肥   :早吸日女神(天満社 境内社)
・金山神社  :日田市夜明   :早吸姫命、須佐之男、大己貴命
・関神社   :日田市田島   :早吸日女神(大原八幡宮 境内社)
・関神社   :日田市天瀬町  :早吸姫神(主神)

となっています。

やはり、日田市、竹田市を中心とした中山間地域に集中してますねぇ。 
ということは、早吸日女神は漁業や航海を生業とする海部の人々と、必ずしも強い結びつきは無いものと考えて良さそうですね。

大分市旦野原に鎮座する早吸日賣神社
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モダンな造りが新興住宅地と良くマッチしている。
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祭神は底筒之神、中筒之神、表筒之神のいわゆる住吉三神
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神紋は十六葉菊
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境内の石祠
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ならば、早吸日女(速吸姫)とは?

岩手県遠野市附馬牛町の早池峰山に鎮座する「早池峰(はやちね)神社」の祭神は「瀬織津姫」であり、「風琳堂主人」は、

【大昔に女神あり】
四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯[はやちね]という、北の方附馬牛[つくもうし]の奥にあり。東の方には六角牛[ろっこうし]山立てり。
石神[いしがみ]という山は附馬牛と達曾部[たっそべ]との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来内[らいない]村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫目覚[めざ]めてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。
若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもうゆえに、遠野の女どもはその妬[ねた]みを畏[おそ]れて今もこの山には遊ばずといえり。(『遠野物語』第二話、『柳田國男全集』所収)
 ここには、遠野三山と呼ばれる早池峰山、六角牛山、石上(石神)山に「若き三人の女神」が住んでいる(「領したもう」)とある。
また、その「三人の女神」の「母の神」は「今の来内[らいない]村の伊豆権現の社」に留まったとされる。
早池峰山は早池峰神社、六角牛山は六神石神社、石上山は石上神社、そして伊豆権現社は現在の伊豆神社と、それぞれの神の拝所・祭祀場としての神社が現在もある。
昭和十四年に発行された『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会)には、上記神社がまつる神々は、次のように記録されている。

■遠野三山の神々と「母の神」の社
早池峯神社……瀬織津姫命
六神石神社……大己貴命、誉田別命
石上神社 ……経津主命、伊邪那美命、稲蒼魂命
伊豆神社 ……瀬織津姫命

遠野三山には「若き三人の女神」がいると記していた『遠野物語』だったが、六角牛山からは「女神」の存在は消えているようである。
また、石上山にしても、「伊邪那美命」はたしかに女神だが、伊豆神の娘神とは認められないので、この山からも、物語の女神は消えているとみてよい。
残るは早池峰山で、この早池峰山神と伊豆神として記載される「瀬織津姫命」という神が、この「特集」の中心となる女神である。(以下、略)

と述べられています。

遠野三山の三女神像(伊豆神社所蔵):風琳堂主人
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瀬織津姫櫛稲田姫と同神と考えられるので、この早池峰神社の祭神もスサノヲの后、櫛稲田姫のことで良いと思われます。
「早吸日女(はやすひめ)」と「早池峰(はやちね)」。
何となく、語感が似ていますねぇ。
なので、「早吸日女」も櫛稲田姫と同一神と考えたくなりますねぇ。

そう言ったことに思いを巡らせていたところ、
百嶋神社考古学研究会のメンバーでもある、U女史から貴重な情報が伝えられました。
何というタイミングの良さでしょうか。
U女史に感謝です。

それは、百嶋先生が講演会で使用した手書きの資料の中に鴨玉依姫の別名として、「早吸日女」が記載されていたというものでした。
そして、講演会で撮影したという写真も郵送していただきました。


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なるほど、鴨玉依姫は、早吸日女であり、林姫でもあったのですね。
それで、速吸瀬戸などの海岸部とは関係なく、中山間部にも多く鎮座されているのでしょうか。

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佐賀関の早吸日女神社では鴨玉依姫は当社の祭神からは消されていますが、夫神である大直日は祭神として祀られていますし、子供の椎根津彦、さらにその子供の黒砂、真砂は摂社として境内に鎮座しています。
そして、当社近くに鎮座する椎根津彦神社には子供とされる椎根津彦が祀られいます。

当社は、西暦701年(大宝元年)に古宮から、現在地の素娥(そが)の地に遷られていました。ね。
この西暦701年は古代史にとって、とても重要な意味ある年のようで、それまで続いていた九州年号の終焉の年とも伝えられています。

この九州年号と関係の深い九州北部には、蘇我氏(物部氏も同様)がかって活躍していたとの伝承が今も色濃く残されています。

蘇我氏について、ウイキペディアでの記載の一部です。

【蘇我氏は九州倭国の皇室】
以下のことから蘇我氏とは九州倭国の天皇家のことであったと考えられる。
・蘇我稲目以前の蘇我氏の先祖が分からない。
・新参の蘇我氏が何故、短期間で権力を掌握できたか分からない。
・蘇我氏は、渡来人の集団を支配し進んだ知識や技術を持っていたとされている。
・当時、畿内地方で唯一蘇我氏だけが仏教を崇拝していたとされている。
・蘇我氏の名は、馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿になることや蝦夷など、実名ではないと考えられる点がある。
・蘇我蝦夷の邸宅が「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅が「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼ばれていた。
・蘇我入鹿の子らが親王の扱いを受けていた。
・『国記』、『天皇記』といった皇室が代々受け継ぐべき史書を蘇我氏が所持し邸宅で保管していた。
・物部守屋を「丁未の乱」で滅ぼしている。物部氏は、「磐井の乱」で“長門”以西を支配することを認められた天皇家に次ぐ大豪族である。ナンバー2の豪族は皇権最大の危険要因であり、これを除く事は皇室として自然な行為である。また、蘇我氏が天皇家であり支配者だったからこそナンバー2の大豪族である物部氏に勝つことができたのである。


佐賀関を始めとする大分県内の早吸日女神社、それから大分県の外、兵庫県や富山県にも鎮座する林神社には元々、鴨玉依姫が主祭神として祀られていたのでしょう。
しかしながら歴史の波に翻弄され、蘇我氏などの、その時々の有力氏族の影響を強く受け続けた結果、入れ替わる舞台劇の役者さながらに祭神の交替が行われてきたのでしょう。
もちろん、それは何らかの意図があってのことと思われます。
そして、それぞれの社には、謎多き伝承をまとった由緒が真しやかに、今に、伝えられているということなのでしょうか


【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」をご覧ください。】

Posted on 2017/05/27 Sat. 23:31 [edit]

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17.【神武天皇伝承】早吸日女神社②(大分市佐賀関)  

「林の原点は大分市の早吸」
百嶋先生の資料に書き記されたこのメモの意味を考えてみなければなりませんね。

百嶋資料では、「林天皇」とは「蘇我入鹿」のことを指しているようです。
蘇我入鹿のフルネームは蘇我林臣鞍作(そがの はやしのおみ くらつくり)とのことですが、林臣」「林大郎」などの別名も持っていたようです。

林大郎は「林臣」家で育てられた「蘇我」の「大郎」(長男)を意味するのでしょうか。
「林」の名が気になります。

蝦夷・入鹿親子の城のような邸宅は柵で囲われ、兵庫(つわものぐら)には兵器が蓄えられていたそうです。
また、当時の最強戦闘集団が警護に当たっていたことや「蘇我家」の「男女(子供たち)」が「王子(みこ)」と呼ばれていたことなどを考えると、その権力は天皇を凌ぐ勢いだったようで、まさしく「林天皇」だったのでしょうか。

「早吸」と「林」、そして「蘇我氏」。

そう言えば、当社の鎮座地は、神社明細帳によると佐賀関大字関字須賀(すが)となっています。

享和3年(1803年)に豊後岡藩の儒学者 唐橋君山らによって編纂された豊後国の地誌「豊後国志」には、

大寶元年。奉神宣一。神宮于曲浦清地一。 曲浦呼爲和多浦

清地呼爲素娥一。後作洲賀一。盖佐加古稱。

と誌されています。

つまり、大寶元年(701年)に神慮によって遷座した現在地は、当初、「曲浦の清地」と呼ばれていたが、その後、曲浦を和多浦(わたのうら)、清地を「素娥(そが)」と呼ぶようになった。
これが後に「洲賀(すが)」となり、「佐加(さか)郷」という名称にも繋がっていったということでしょうか

なるほど、「早吸(速吸)」の地と「蘇我氏」とは何かしらの関連があるのかもしれませんね。

その蘇我氏の出自については諸説あり、
ウィキペディアでは、

『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としている。

具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては以下の諸説がありよく分かっていない。

 ・河内の石川(現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族という説

 ・葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説

『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。


と、記載されていますが、武内宿禰(たけうちのすくね)が出てきました。

武内宿禰は、百嶋系図では孝元天皇山下影姫(蘇賀姫)との御子となっています。
この山下影姫の御母は葛城高千那姫(菅忍比咩)、祖母は長髄彦(ナガスネヒコ)の妹である武内足尼(=オキツヨソ足姫)となっています。
何やら、蘇賀や菅など、蘇我に通じるような名前もチラホラと見られますね。


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早吸日女神社は天慶4年(941年)から天明6年(1786年)の約845年間、関六所大権現宮と称していたようです。
古くから、人々は当社を伊勢神宮になぞえて御関様(関権現)と称し、伊勢神宮に参拝することを参宮、当社に参詣することを半参宮ととなえ、ことに篤く信仰したようです。

郷土誌によれば、当社の神職家は安部家(宮主・下之宮)、幸(ゆき)家(検校・中之宮)、小野家(祠官・垢離堂(こりどう))、小野家(祠官・宮之崎(みやんざき))、関家(社家・上之宮)の5家だったとのことです。
これらの神職家は各地に配札場を持ち、祈祷札を配っていたようです。
当時、遠方から参拝に来た人たちを社家館で泊めて御札を授けていたとのことで、社家館には御祈祷所があったと伝えられています。
つまり、当時の神職たちは伊勢神宮の「御師(おし)」と同じような活動をしていたようですね。
大正期までは安部家、幸家、小野家(2家)の4家が神職をされていたようですが、現在は、小野家(1家)のみとなっています。

小野家についての郷土誌(佐賀関街道-関往還-)の記述です。

現宮司の小野家は、敏達天皇を祖とし、春日王子 → 妹子(いもこ)王 → 毛人(えみし)→岑守(みねもり)→ 篁(たかむら) → 葛弦(くずお)→ 好古(よしふる)→ 宥仁大夫秀長(ひろひとたゆうひでなが)と続いたが、承平6年(936年)、藤原純友が伊予において謀反を起こしたため、朝廷は好古を征討将軍として討伐に派遣、秀長も同行して早吸日女神社の神職となり、神社を護持するとともにその勢力を以て佐賀関を防衛したと言い伝えられている。

天慶4年(941年)、純友は捕らえられ天慶の乱は終わる。

その功績により好古は中将に任じられ、三位に叙せられたという。

秀長の子は、引き続き社家として神社に奉仕し、その護持に当たり今日に至っている。


現在の小野家の建物は、当主早吸日女神社宮司 小野清次秀崇の六代前、河内守秀真が明和年中(1764~1772)に建築したものである。

(中略)

建物の内部には、祈禱場・潔斎の間(この二か所の格天井(ごうてんじょう)には花鳥画が描かれている)、大名の間(上段の間)などが現存する。

県下では珍しい社家の建築物である。


小野家社家
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小野家社家の屋根に打たれている家紋(亀甲に唐花紋)
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小野家の家紋(男紋:亀甲に唐花紋)
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小野家の家紋(女紋:三つ割唐花紋
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実は、当社の小野宮司家と島根県出雲市の日御碕に鎮座する日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)の社家、小野家とが姻戚関係(あるいは同じ氏族)にあるとの説があります。
このことについて、現在の小野眞一郎宮司に訊ねましたが、きっぱりと否定されました。

百嶋先生は、日御碕神社の小野家について、ヘブライ系小野氏であり、天葺根命(=大山咋=佐田大神)の系統を継いでいると、話されています。

さらに、日御碕神社の境内社として、「林神社」なるものが鎮座されています。
とても、気になりますねぇ。

早速、ネットで検索すると、日御碕神社の由緒書きには、

林神社(摂社) 天葺根命(天冬衣命)

 境外、宇竜港附近の山上に鎮座す。天葺根命は天照大御神を経島に祀り、素盞鳴尊を隠ケ丘に祀り絡うた。即ち日御碕神社の祭主であって、命の子孫は世々その職を嗣ぎ(中世以降日御碕検校と称す)現小野宮司は実に九十七代の後 に当る。

と、記されているようです。

また、玄松子氏のブログでは、

摂社

天葺根神祉 出雲郷宇料(簸川郡大社町宇竜)にある。

祭神 波屋志明神〔神主の祖神である〕。


との記述もありました。

やはり、天葺根命と繋がってきますね。

林神社は大分県内にも鎮座していて、木野明神なるものが祀られていますが、この摂社と何かしらの関係があるのでしょうか。

林神社について百嶋資料で確認すると、
「林神社とはイカコヤ姫とその娘神・鴨玉依を祀る社」であり、このことは極秘事項と記されています。
イカコヤ(雷古要)姫とは、スサノヲと別れた後に建角身(=豊玉彦)と結婚した櫛稲田姫のことであり、その娘神である鴨玉依天葺根命(=大山咋=佐田大神)の后なのです。


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ここで関の早吸日女神社の祭神をもう一度、考えてみましょう。

 八十枉津日神(やそまがつひのかみ)=瀬織津姫櫛稲田姫
 大直日神(おほなほひのかみ)=佐田大神大山咋鴨玉依姫(=神直日)と夫婦神

ということでしたね。

百嶋先生はさりげなく、「瀬織津姫=櫛稲田姫」と記されていますが、これを理解するためには少しばかり時間が必要でした。

いろいろと調べた結果、「祇園牛頭天王縁起」に登場する頗梨采女(はりさいにょ)にたどり着きました。
頗梨采女(はりさいにょ)についてのウィキペディアの記述です。


 牛頭天王は祇園精舎の守護神ともされる仏教由来の神で、日本では行疫神(疫病を流行らせる神)として畏怖されるとともに神道の素戔嗚尊と習合し、明治期の神仏分離令まで祇園社(八坂神社)の祭神として祀られ、篤い尊崇を受けた神であるが、頗梨采女はその牛頭天王の后であることから、素戔嗚尊の后である奇稲田姫とも同一視された。

もともと頗梨采女は、祇園社の本殿西御座に祀られていたが、明治以後の八坂神社では、奇稲田姫として東御座に祀られている。


どうやら、頗梨采女櫛稲田姫は同神とのことのようです。
さらに、瀬織津姫は「疫病を流行らせる神」だったとも云われ、仏の力で封印された姿が「頗梨采女」だったようですね
なので、櫛稲田姫=頗梨采女=瀬織津姫の等式が成立するということでしょうか。

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「早吸」は「林(波屋志)」と関係が深く、さらに蘇我氏の影もちらついているようですが、くっきりとあぶり出すには、さらなる調査が必要のようです。

そして、潮の流れが速く、航行の難しい速吸瀬戸(はやすいのせと)と「早吸」とは、必ずしも関連は深くないのかもしれません。
何故なら、大分県内では、早吸日女神社と同系統と考えられる神社の多くが沿岸部ではなく、中山間部に鎮座しているのです。
不思議ですねぇ。
「早吸日女」とは一体、どういった神なのでしょうか。

そこのところについて、ボチボチと考えてみたいと思います。


【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」をご覧ください。】


Posted on 2017/03/26 Sun. 22:08 [edit]

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16.【神武天皇伝承】早吸日女神社①(大分市佐賀関) 

 古代、海部郡がおかれた国は紀伊、尾張、隠岐と豊後の四つのみだったそうですね。
それはもちろん、海産物が豊かで漁民が中心だったということもあったのでしょうが、それ以上に、何よりも海上交通の要の地だったのでしょう。
そして、この要衝の地を支配していた海部(あま:海人)とは、水上交通の技術者集団であり、当然ながら、長い航海術にも長けていたことは容易に想像できますね。

大分市佐賀関は佐賀関半島に立地し、律令制下では海部郡佐加(さか)郷に属していました。
そして半島の地頸部に天然の良港を擁していたため、早くから漁業と海運業の町として栄えてきたようです。
大分市から東進する国道には愛媛街道の名があり、かっては関(せき)往還と呼ばれて府内城下と関を結び、さらに関からは海路伊予に通じる道として重要視されてきたようです。
江戸時代、町域は熊本藩(細川氏)の飛び地であったとのことで、藩主の参勤の行路として小倉経由の豊前路と交互に、この街道が使われたようですね。

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旧佐賀関町関崎と愛媛県伊方町(旧三崎町)の佐田岬によって挟まれる豊予海峡(ほうよかいきょう)は速吸瀬戸(はやすいのせと)とも呼ばれ、幅約 13kmで、瀬戸内海と豊後水道を上下する潮流が激しく流れています。
さらに、海底も複雑で、佐田岬と佐賀関を結ぶ線上には、馬の背のような尾根(海底山脈)が走っていて、水深60mから100mの浅い瀬が連なっているということです。
とにかくも航行の難所であることに違いはないでしょう。

因みに、この海峡は好漁場としても知られいて、佐賀関港に水揚げされるアジとサバは、速い潮流により、身が引き締まり脂ものっており、「関あじ」、「関さば」として全国的に名を馳せています。

豊予海峡を航行する貨物船
(手前が関崎で左手奥が佐田岬。右手の島は高島)
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そして、この速吸瀬戸にも神武天皇の東征にまつわる伝承が残されています。
ウィキペディアからの引用です。

『古事記』や『日本書紀』においては、神武天皇が東征の途上で速吸門を通ったときに、国つ神の椎根津彦が現れて航路を案内したとの記載があり、この速吸門が豊予海峡のことであると考えられている。
ただし、『日本書紀』では経路に地理的整合性があるものの、『古事記』では九州を出て吉備国の高島宮に滞在した後に速吸門を通ったとされており、整合性を欠く。
佐賀関には椎根津彦をまつる椎根津彦神社が残っている。

同じく佐賀関に鎮座する「早吸日女(はやすひめ)神社」の由緒にも、また、神武東征の伝承が色濃く残されています。
再び、ウィキペディアからの引用です。

神社の縁起によれば、紀元前667年に、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、後の神武天皇)が東征の途中で速吸の瀬戸(豊予海峡)を通りかかった折りに、海女の姉妹の黒砂(いさご)・真砂(まさご)の二神が、潮の流れを静めるために海底から大蛸が護っていた神剣を取り上げて神日本磐余彦尊に奉献したところ、神日本磐余彦尊自らがこの剣を御神体として、祓戸(はらへど)の神(速吸日女)を奉り、建国を請願したのが始まりであるとされる。
その後、大宝元年(701年)に現在の場所に遷座。
慶長5年(1600年)には戦火によって社殿を焼失したが、熊本藩の所領となり、慶長7年(1602年)に加藤清正によって再建され、その後も歴代熊本藩主細川氏によって造営された。2004年3月には、本殿、総門、社家が大分県の有形文化財に指定されている。
長い間神剣を守護していたタコは神社の眷族とされており、仕える神職は一切口にしない。
現在でも参拝者の心願成就を書き入れたタコの絵を奉納し「タコ絶ち祈願」が行われている。
(中略)
拝殿の屋根はこの地方独特の瓦技法を伝える屋根で、浦島太郎や三重塔などのユニークな瓦が乗っている。


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一の台輪鳥居
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総門(八脚門)


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参道の鳥居:右手前は手水舎,左は社務所
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拝殿:千鳥破風の下に龍の鬼瓦付きの唐破風が付けられるという超豪華な造り
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拝殿屋根の浦島太郎
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拝殿屋根の竜宮城
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拝殿屋根の迫力ある装飾
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拝殿:双龍の彫刻
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拝殿の扁額
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拝殿・申殿内:神紋は下がり藤
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拝殿内に奉納されている多くの蛸の絵
:ご神体として奉斉されている神剣は蛸が長い間、速吸の瀬戸で守護していたことに因み、
 「蛸の絵」を奉斉して一定期間、蛸を食べずに願い事をすると必ず成就するといわれて
 いる(蛸断ち祈願)
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本殿:内削ぎ、外削ぎが交差した珍しい千木
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「祭神」
 ・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)
 ・大直日神(おほなほひのかみ)
 ・底筒男神(そこつつのをのかみ)
 ・中筒男神(なかつつのをのかみ)
 ・表筒男神(うはつつのをのかみ)
 ・大地海原諸神(おほとこうなはらもろもろのかみ)

まず、ウイキペディアで八十枉津日神を見てみましょう。

禍津日神(まがつひのかみ、まがついのかみ)は神道の神である。
禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味であるので、マガツヒは災厄の神という意味になる。
神産みで、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに生まれた神で、『古事記』では八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二神、『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)としている。
これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている。
(中略)
また、本居宣長は、禍津日神を祓戸神の一柱である瀬織津比売神(せおりつひめ)と同神としている。

ということで、祓戸大神(はらえどのおおかみ)の中の1柱ということのようですね。
さらに、この祓戸大神についてウイキペディア

『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売速開都比売気吹戸主速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。
これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

と解説されています。

この祓戸四神については、百嶋系図にも誌されていました。

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つまり、八十枉津日瀬織津比売は同神ということでしょうか。
そして、瀬織津比売櫛稲田姫(くしなだひめ)のこととしています。

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政略結婚が盛んだった古代ではその都度、名前も替えるため、実に複雑な系図になっていますねぇ。

百嶋系図では、祓戸神である瀬織津姫出雲神話でスサノヲの妻になられた櫛稲田姫、そして「山城国風土記」に出てくる 丹波の姫こと伊賀古夜姫命(イカコヤヒメ)は同一神なのです。
櫛稲田姫スサノヲと別れた後、豊玉彦と通婚し、御名前をイカコヤヒメと替えているのです。
そして御子、鴨玉依姫(=神直日)をもうけられました。

当社の祭神として祀られている大直日神(おほなほひのかみ)は、この鴨玉依姫(=神直日)と夫婦神であり、宇佐市安心院の佐田神社でお生まれになった佐田大神(=大山咋神(おおやまくいのかみ))のこととされています(ブログ6~8「宇佐市安心院町の佐田神社」参照)

百嶋神社考古学では、櫛稲田姫(くしなだひめ)は父神が瀛(いん)氏の金山彦、そして母神が大幡主博多・櫛田神社の主祭神で白族)の妹である埴安姫(はにやすひめ)とされています。
この辺の詳しい解説については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の「284 大宮神社と猿田彦大神 ④ 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! をご覧ください。

先日、私も櫛稲田姫がお生まれになったと伝えられる山鹿市の神社に、ひぼろぎ逍遥の古川氏らとともに調査に行って参りました。

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そこには、金山彦命(かなやまひこのみこと)と埴安姫命(はにやすひめのみこと)が共に祀られていましたし、モーゼ由来の十字剣(円天角地に十字剣)の紋章の神紋にも巡り会うことができました(金山彦はヘブライ系の瀛(えい又は、いん)氏であり、モーゼの直系。秦の始皇帝との縁組が許され、始皇帝と同じ嬴(いん)の文字を使うことが許可されたそうです。さらに海を渡り日本列島にやって来たため、嬴の文字に「氵(さんずい)」が加わり、「」となったとのことです。)

そして、その地域には、今なお、「稲田」の文字が付く地名がわずかながら残されていました。

これらの事実は、どういうことなのでしょうか?
出雲の神話とはいったい、何だったのでしょうか?
ざらついた疑問がふつふつと胸の内を突いてきます。
こういう時にはパイプを取り出して、久しぶりにブルーノートでも燻らしますか…。

と、何かが、閃きました。
確か、早吸日女神社近くの交差点に「金山」の標識があったはずです。
地図で確認すると、やはりありました。
半島がきゅっとくびれる直前の場所。
近くには、早吸日女神社が創建時に鎮座していた伝えられている「古宮」もありました。

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早速、郷土史で調べると、当地は古くから鉱山(銅山)があったとのことで、鉱山の鎮守として金剛山明神祠(祭神 金山彦神金山姫神(おそらく埴安姫命))が鎮座されていたようですが、慶長5年(1600年)の佐賀関合戦(竹田の中川勢と臼杵の太田勢との合戦)のとき兵火にかかり焼失した(佐賀関街道・関往還)そうです
また、その時、早吸日女神社の社殿・宝物も一切が焼失した(佐賀関町史)とのことで、非常に残念なことですね。
現在、この町には銅製錬業の日鉱製錬(株)・佐賀関製錬所の200mの巨大煙突が聳えていますが、早くから採銅所として栄えていたのでしょうか。
近くの遠見山の「幸ノ浦遺跡」からは石棺と古式土師器の破片が出土しており、それらは4~5世紀のものと推定されているようですし、同じく遠見山の南麓からは中広銅矛(弥生時代中期から後期前半ごろのものと比定)も発見されています(佐賀関町史)。

金山彦神(=加具土(かぐつち)=事解男(ことあきお)=気吹戸主(いぶきどぬし))は、九州王朝第1期親衛隊長として神武天皇をお護りしていたようですが、その一方で、優秀な鉱山技師でもあったようです。

百嶋系図では金山彦神は西暦106年に、そして埴安姫命(=金山姫神)は西暦113年にお生まれになっていますが、ご夫婦で当地に赴任されていたのかもしれませんね。
そうであれば、八十枉津日(=瀬織津比売櫛稲田姫)を祭神とする早吸日女神社の前身である元宮が、金山彦神をお祀りする金剛山明神祠の近くに鎮座していたことは、何となく、納得できます。

では、祭神に戻りましょう。

底筒男神(そこつつのをのかみ)、中筒男神(なかつつのをのかみ)、表筒男神(うはつつのをのかみ)は住吉三神と呼ばれているもので、これについては、ひぼろぎ逍遥「155 百嶋神社考古学では住吉三神をどう考えるか」で詳しく考察されています。

要するに、
 底筒男命  開化天皇(1775) 久留米高良大社の祭神=高良玉垂命
 中筒男命  (贈)崇神天皇(1805) ツヌガノアラシト(大山咋命の子)
 表筒男命  安曇磯良(1815)  大川風浪宮の祭神
であり、当然、底筒男命が最上格であり、残りの二神は臣下だったようです。

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境内社:伊邪那岐社(伊邪那岐神):屋根にはチタニウム板が用いられている
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境内社:神明社(天照皇大神)
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境内社 左:生土社(埴安神)、相殿社(健磐龍神・武内宿禰神)
    右:木本社(椎根津彦神)
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境内社:歳神社(大年神、御年神),天然社(醍醐天皇),若御子社(黒砂神・真砂神)
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境内社:天満社(菅原道真公)
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境内社:厳島社(市杵島姫神)hayasu113_2017020412544477e.jpg 

境内社:稲荷社(保食神)
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境内社:神楽殿
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神幸殿
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奥行きのある境内は非常によく手入れされており、ゆるやかな参道を奥へと進むと、迫力ある拝殿がどっしりと鎮座されています。
さすが、式内社の威厳と風格でしょうか。
本殿は貴婦人のように、一際、美しく輝いています。

百嶋神社考古学では、神武天皇東征の伝承は神日本磐余彦尊ご自身ではなく、贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとされています。
ただ、神武天皇による御巡幸(西暦165年頃)はあったようで、コースとしては、西九州を北上し、東北地方まで訪れているようです。

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百嶋系図では、早吸日女神社の由緒にも登場する椎根津彦(=倭彦)は贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)の弟神に当たるようですね。
そして椎根津彦の御子として、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご)の姉妹神がおられるようです。

神社の祭神は、必ず実在した人物であったと、私は考えています。
何故なら、そこに神社があり、伝承が残されているからです。
良く考えれば、解ることだと思うのですが、架空のものに対し、我々は社や祠を用意するなどして、お祀りなどしないのではないでしょうか。

話を早吸日女神社にもどしましょう。

当社の由緒によると、西暦701年(大宝元年)に、御神慮により古宮から遷座したと誌されています。

通常、元宮から遷座する場合は、「参拝するのに不便」とか、「道路の拡幅」や「建物の新設」などといった、極めて人間的な理由によるものが多いようですね。
なので、「遷座」、そのものついては珍しいことではないと思っています。

ですが、この時代、特に大宝元年に何故、遷座する必要があったのか。
何か、腑に落ちませんねぇ。
この「神慮」とはいったい、何を意味するのでしょうか。

ここに百嶋先生の資料の一部に手書きのメモが遺されています。

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そこには、「林」の原点は大分市の「早吸」と書かれています。
何か、謎めいていますが、またまた、難問みたいですねぇ。
ですが、ここのところをボチボチと考えてみたいと思っています。

古代史の謎解きは、やっぱり、興味が尽きませんね。



【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」を是非、ご覧ください!】



Posted on 2017/01/22 Sun. 19:17 [edit]

category: 日記・古代史

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