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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

17.神武天皇伝承の検証 早吸日女神社②(大分市佐賀関)  

「林の原点は大分市の早吸」
百嶋先生の資料に書き記されたこのメモの意味を考えてみなければなりませんね。

百嶋資料では、「林天皇」とは「蘇我入鹿」のことを指しているようです。
蘇我入鹿のフルネームは蘇我林臣鞍作(そがの はやしのおみ くらつくり)とのことですが、林臣」「林大郎」などの別名も持っていたようです。

林大郎は「林臣」家で育てられた「蘇我」の「大郎」(長男)を意味するのでしょうか。
「林」の名が気になります。

蝦夷・入鹿親子の城のような邸宅は柵で囲われ、兵庫(つわものぐら)には兵器が蓄えられていたそうです。
また、当時の最強戦闘集団が警護に当たっていたことや「蘇我家」の「男女(子供たち)」が「王子(みこ)」と呼ばれていたことなどを考えると、その権力は天皇を凌ぐ勢いだったようで、まさしく「林天皇」だったのでしょうか。

「早吸」と「林」、そして「蘇我氏」。

そう言えば、当社の鎮座地は、神社明細帳によると佐賀関大字関字須賀(すが)となっています。

享和3年(1803年)に豊後岡藩の儒学者 唐橋君山らによって編纂された豊後国の地誌「豊後国志」には、

大寶元年。奉神宣一。神宮于曲浦清地一。 曲浦呼爲和多浦

清地呼爲素娥一。後作洲賀一。盖佐加古稱。

と誌されています。

つまり、大寶元年(701年)に神慮によって遷座した現在地は、当初、「曲浦の清地」と呼ばれていたが、その後、曲浦を和多浦(わたのうら)、清地を「素娥(そが)」と呼ぶようになった。
これが後に「洲賀(すが)」となり、「佐加(さか)郷」という名称にも繋がっていったということでしょうか

なるほど、「早吸(速吸)」の地と「蘇我氏」とは何かしらの関連があるのかもしれませんね。

その蘇我氏の出自については諸説あり、
ウィキペディアでは、

『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としている。

具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては以下の諸説がありよく分かっていない。

 ・河内の石川(現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族という説

 ・葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説

『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。


と、記載されていますが、武内宿禰(たけうちのすくね)が出てきました。

武内宿禰は、百嶋系図では孝元天皇山下影姫(蘇賀姫)との御子となっています。
この山下影姫の御母は葛城高千那姫(菅忍比咩)、祖母は長髄彦(ナガスネヒコ)の妹である武内足尼(=オキツヨソ足姫)となっています。
何やら、蘇賀や菅など、蘇我に通じるような名前もチラホラと見られますね。


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早吸日女神社は天慶4年(941年)から天明6年(1786年)の約845年間、関六所大権現宮と称していたようです。
古くから、人々は当社を伊勢神宮になぞえて御関様(関権現)と称し、伊勢神宮に参拝することを参宮、当社に参詣することを半参宮ととなえ、ことに篤く信仰したようです。

郷土誌によれば、当社の神職家は安部家(宮主・下之宮)、幸(ゆき)家(検校・中之宮)、小野家(祠官・垢離堂(こりどう))、小野家(祠官・宮之崎(みやんざき))、関家(社家・上之宮)の5家だったとのことです。
これらの神職家は各地に配札場を持ち、祈祷札を配っていたようです。
当時、遠方から参拝に来た人たちを社家館で泊めて御札を授けていたとのことで、社家館には御祈祷所があったと伝えられています。
つまり、当時の神職たちは伊勢神宮の「御師(おし)」と同じような活動をしていたようですね。
大正期までは安部家、幸家、小野家(2家)の4家が神職をされていたようですが、現在は、小野家(1家)のみとなっています。

小野家についての郷土誌(佐賀関街道-関往還-)の記述です。

現宮司の小野家は、敏達天皇を祖とし、春日王子 → 妹子(いもこ)王 → 毛人(えみし)→岑守(みねもり)→ 篁(たかむら) → 葛弦(くずお)→ 好古(よしふる)→ 宥仁大夫秀長(ひろひとたゆうひでなが)と続いたが、承平6年(936年)、藤原純友が伊予において謀反を起こしたため、朝廷は好古を征討将軍として討伐に派遣、秀長も同行して早吸日女神社の神職となり、神社を護持するとともにその勢力を以て佐賀関を防衛したと言い伝えられている。

天慶4年(941年)、純友は捕らえられ天慶の乱は終わる。

その功績により好古は中将に任じられ、三位に叙せられたという。

秀長の子は、引き続き社家として神社に奉仕し、その護持に当たり今日に至っている。


現在の小野家の建物は、当主早吸日女神社宮司 小野清次秀崇の六代前、河内守秀真が明和年中(1764~1772)に建築したものである。

(中略)

建物の内部には、祈禱場・潔斎の間(この二か所の格天井(ごうてんじょう)には花鳥画が描かれている)、大名の間(上段の間)などが現存する。

県下では珍しい社家の建築物である。


小野家社家
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小野家社家の屋根に打たれている家紋(亀甲に唐花紋)
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小野家の家紋(男紋:亀甲に唐花紋)
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小野家の家紋(女紋:三つ割唐花紋
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実は、当社の小野宮司家と島根県出雲市の日御碕に鎮座する日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)の社家、小野家とが姻戚関係(あるいは同じ氏族)にあるとの説があります。
このことについて、現在の小野眞一郎宮司に訊ねましたが、きっぱりと否定されました。

百嶋先生は、日御碕神社の小野家について、ヘブライ系小野氏であり、天葺根命(=大山咋=佐田大神)の系統を継いでいると、話されています。

さらに、日御碕神社の境内社として、「林神社」なるものが鎮座されています。
とても、気になりますねぇ。

早速、ネットで検索すると、日御碕神社の由緒書きには、

林神社(摂社) 天葺根命(天冬衣命)

 境外、宇竜港附近の山上に鎮座す。天葺根命は天照大御神を経島に祀り、素盞鳴尊を隠ケ丘に祀り絡うた。即ち日御碕神社の祭主であって、命の子孫は世々その職を嗣ぎ(中世以降日御碕検校と称す)現小野宮司は実に九十七代の後 に当る。

と、記されているようです。

また、玄松子氏のブログでは、

摂社

天葺根神祉 出雲郷宇料(簸川郡大社町宇竜)にある。

祭神 波屋志明神〔神主の祖神である〕。


との記述もありました。

やはり、天葺根命と繋がってきますね。

林神社は大分県内にも鎮座していて、木野明神なるものが祀られていますが、この摂社と何かしらの関係があるのでしょうか。

林神社について百嶋資料で確認すると、
「林神社とはイカコヤ姫とその娘神・鴨玉依を祀る社」であり、このことは極秘事項と記されています。
イカコヤ(雷古要)姫とは、スサノヲと別れた後に建角身(=豊玉彦)と結婚した櫛稲田姫のことであり、その娘神である鴨玉依天葺根命(=大山咋=佐田大神)の后なのです。


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ここで関の早吸日女神社の祭神をもう一度、考えてみましょう。

 八十枉津日神(やそまがつひのかみ)=瀬織津姫櫛稲田姫
 大直日神(おほなほひのかみ)=佐田大神大山咋鴨玉依姫(=神直日)と夫婦神

ということでしたね。

百嶋先生はさりげなく、「瀬織津姫=櫛稲田姫」と記されていますが、これを理解するためには少しばかり時間が必要でした。

いろいろと調べた結果、「祇園牛頭天王縁起」に登場する頗梨采女(はりさいにょ)にたどり着きました。
頗梨采女(はりさいにょ)についてのウィキペディアの記述です。


 牛頭天王は祇園精舎の守護神ともされる仏教由来の神で、日本では行疫神(疫病を流行らせる神)として畏怖されるとともに神道の素戔嗚尊と習合し、明治期の神仏分離令まで祇園社(八坂神社)の祭神として祀られ、篤い尊崇を受けた神であるが、頗梨采女はその牛頭天王の后であることから、素戔嗚尊の后である奇稲田姫とも同一視された。

もともと頗梨采女は、祇園社の本殿西御座に祀られていたが、明治以後の八坂神社では、奇稲田姫として東御座に祀られている。


どうやら、頗梨采女櫛稲田姫は同神とのことのようです。
さらに、瀬織津姫は「疫病を流行らせる神」だったとも云われ、仏の力で封印された姿が「頗梨采女」だったようですね
なので、櫛稲田姫=頗梨采女=瀬織津姫の等式が成立するということでしょうか。

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「早吸」は「林(波屋志)」と関係が深く、さらに蘇我氏の影もちらついているようですが、くっきりとあぶり出すには、さらなる調査が必要みたいですね。

そして、潮の流れが速く、航行の難しい速吸瀬戸(はやすいのせと)と「早吸」とは、必ずしも関連は深くないのかもしれません。
何故なら、大分県内では、早吸日女神社と同系統と考えられる神社の多くが沿岸部ではなく、中山間部に鎮座しているのです。
不思議ですねぇ。
「早吸日女」とは一体、どういった神なのでしょうか。

そこのところについて、ボチボチと考えてみたいと思います。


【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」をご覧ください。】


Posted on 2017/03/08 Wed. 22:08 [edit]

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16.神武天皇伝承の検証 早吸日女神社①(大分市佐賀関) 

 古代、海部郡がおかれた国は紀伊、尾張、隠岐と豊後の四つのみだったそうですね。
それはもちろん、海産物が豊かで漁民が中心だったということもあったのでしょうが、それ以上に、何よりも海上交通の要の地だったのでしょう。
そして、この要衝の地を支配していた海部(あま:海人)とは、水上交通の技術者集団であり、当然ながら、長い航海術にも長けていたことは容易に想像できますね。

大分市佐賀関は佐賀関半島に立地し、律令制下では海部郡佐加(さか)郷に属していました。
そして半島の地頸部に天然の良港を擁していたため、早くから漁業と海運業の町として栄えてきたようです。
大分市から東進する国道には愛媛街道の名があり、かっては関(せき)往還と呼ばれて府内城下と関を結び、さらに関からは海路伊予に通じる道として重要視されてきたようです。
江戸時代、町域は熊本藩(細川氏)の飛び地であったとのことで、藩主の参勤の行路として小倉経由の豊前路と交互に、この街道が使われたようですね。

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旧佐賀関町関崎と愛媛県伊方町(旧三崎町)の佐田岬によって挟まれる豊予海峡(ほうよかいきょう)は速吸瀬戸(はやすいのせと)とも呼ばれ、幅約 13kmで、瀬戸内海と豊後水道を上下する潮流が激しく流れています。
さらに、海底も複雑で、佐田岬と佐賀関を結ぶ線上には、馬の背のような尾根(海底山脈)が走っていて、水深60mから100mの浅い瀬が連なっているということです。
とにかくも航行の難所であることに違いはないでしょう。

因みに、この海峡は好漁場としても知られいて、佐賀関港に水揚げされるアジとサバは、速い潮流により、身が引き締まり脂ものっており、「関あじ」、「関さば」として全国的に名を馳せています。

豊予海峡を航行する貨物船
(手前が関崎で左手奥が佐田岬。右手の島は高島)
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そして、この速吸瀬戸にも神武天皇の東征にまつわる伝承が残されています。
ウィキペディアからの引用です。

『古事記』や『日本書紀』においては、神武天皇が東征の途上で速吸門を通ったときに、国つ神の椎根津彦が現れて航路を案内したとの記載があり、この速吸門が豊予海峡のことであると考えられている。
ただし、『日本書紀』では経路に地理的整合性があるものの、『古事記』では九州を出て吉備国の高島宮に滞在した後に速吸門を通ったとされており、整合性を欠く。
佐賀関には椎根津彦をまつる椎根津彦神社が残っている。

同じく佐賀関に鎮座する「早吸日女(はやすひめ)神社」の由緒にも、また、神武東征の伝承が色濃く残されています。
再び、ウィキペディアからの引用です。

神社の縁起によれば、紀元前667年に、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、後の神武天皇)が東征の途中で速吸の瀬戸(豊予海峡)を通りかかった折りに、海女の姉妹の黒砂(いさご)・真砂(まさご)の二神が、潮の流れを静めるために海底から大蛸が護っていた神剣を取り上げて神日本磐余彦尊に奉献したところ、神日本磐余彦尊自らがこの剣を御神体として、祓戸(はらへど)の神(速吸日女)を奉り、建国を請願したのが始まりであるとされる。
その後、大宝元年(701年)に現在の場所に遷座。
慶長5年(1600年)には戦火によって社殿を焼失したが、熊本藩の所領となり、慶長7年(1602年)に加藤清正によって再建され、その後も歴代熊本藩主細川氏によって造営された。2004年3月には、本殿、総門、社家が大分県の有形文化財に指定されている。
長い間神剣を守護していたタコは神社の眷族とされており、仕える神職は一切口にしない。
現在でも参拝者の心願成就を書き入れたタコの絵を奉納し「タコ絶ち祈願」が行われている。
(中略)
拝殿の屋根はこの地方独特の瓦技法を伝える屋根で、浦島太郎や三重塔などのユニークな瓦が乗っている。


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一の台輪鳥居
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総門(八脚門)


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参道の鳥居:右手前は手水舎,左は社務所
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拝殿:千鳥破風の下に龍の鬼瓦付きの唐破風が付けられるという超豪華な造り
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拝殿屋根の浦島太郎
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拝殿屋根の竜宮城
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拝殿屋根の迫力ある装飾
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拝殿:双龍の彫刻
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拝殿の扁額
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拝殿・申殿内:神紋は下がり藤
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拝殿内に奉納されている多くの蛸の絵
:ご神体として奉斉されている神剣は蛸が長い間、速吸の瀬戸で守護していたことに因み、
 「蛸の絵」を奉斉して一定期間、蛸を食べずに願い事をすると必ず成就するといわれて
 いる(蛸断ち祈願)
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本殿:内削ぎ、外削ぎが交差した珍しい千木
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「祭神」
 ・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)
 ・大直日神(おほなほひのかみ)
 ・底筒男神(そこつつのをのかみ)
 ・中筒男神(なかつつのをのかみ)
 ・表筒男神(うはつつのをのかみ)
 ・大地海原諸神(おほとこうなはらもろもろのかみ)

まず、ウイキペディアで八十枉津日神を見てみましょう。

禍津日神(まがつひのかみ、まがついのかみ)は神道の神である。
禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味であるので、マガツヒは災厄の神という意味になる。
神産みで、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに生まれた神で、『古事記』では八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二神、『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)としている。
これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている。
(中略)
また、本居宣長は、禍津日神を祓戸神の一柱である瀬織津比売神(せおりつひめ)と同神としている。

ということで、祓戸大神(はらえどのおおかみ)の中の1柱ということのようですね。
さらに、この祓戸大神についてウイキペディア

『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売速開都比売気吹戸主速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。
これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

と解説されています。

この祓戸四神については、百嶋系図にも誌されていました。

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つまり、八十枉津日瀬織津比売は同神ということでしょうか。
そして、瀬織津比売櫛稲田姫(くしなだひめ)のこととしています。

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政略結婚が盛んだった古代ではその都度、名前も替えるため、実に複雑な系図になっていますねぇ。

百嶋系図では、祓戸神である瀬織津姫出雲神話でスサノヲの妻になられた櫛稲田姫、そして「山城国風土記」に出てくる 丹波の姫こと伊賀古夜姫命(イカコヤヒメ)は同一神なのです。
櫛稲田姫スサノヲと別れた後、豊玉彦と通婚し、御名前をイカコヤヒメと替えているのです。
そして御子、鴨玉依姫(=神直日)をもうけられました。

当社の祭神として祀られている大直日神(おほなほひのかみ)は、この鴨玉依姫(=神直日)と夫婦神であり、宇佐市安心院の佐田神社でお生まれになった佐田大神(=大山咋神(おおやまくいのかみ))のこととされています(ブログ6~8「宇佐市安心院町の佐田神社」参照)

百嶋神社考古学では、櫛稲田姫(くしなだひめ)は父神が瀛(いん)氏の金山彦、そして母神が大幡主博多・櫛田神社の主祭神で白族)の妹である埴安姫(はにやすひめ)とされています。
この辺の詳しい解説については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の「284 大宮神社と猿田彦大神 ④ 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! をご覧ください。

先日、私も櫛稲田姫がお生まれになったと伝えられる山鹿市の神社に、ひぼろぎ逍遥の古川氏らとともに調査に行って参りました。

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そこには、金山彦命(かなやまひこのみこと)と埴安姫命(はにやすひめのみこと)が共に祀られていましたし、モーゼ由来の十字剣(円天角地に十字剣)の紋章の神紋にも巡り会うことができました(金山彦はヘブライ系の瀛(えい又は、いん)氏であり、モーゼの直系。秦の始皇帝との縁組が許され、始皇帝と同じ嬴(いん)の文字を使うことが許可されたそうです。さらに海を渡り日本列島にやって来たため、嬴の文字に「氵(さんずい)」が加わり、「」となったとのことです。)

そして、その地域には、今なお、「稲田」の文字が付く地名がわずかながら残されていました。

これらの事実は、どういうことなのでしょうか?
出雲の神話とはいったい、何だったのでしょうか?
ざらついた疑問がふつふつと胸の内を突いてきます。
こういう時にはパイプを取り出して、久しぶりにブルーノートでも燻らしますか…。

と、何かが、閃きました。
確か、早吸日女神社近くの交差点に「金山」の標識があったはずです。
地図で確認すると、やはりありました。
半島がきゅっとくびれる直前の場所。
近くには、早吸日女神社が創建時に鎮座していた伝えられている「古宮」もありました。

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早速、郷土史で調べると、当地は古くから鉱山(銅山)があったとのことで、鉱山の鎮守として金剛山明神祠(祭神 金山彦神金山姫神(おそらく埴安姫命))が鎮座されていたようですが、慶長5年(1600年)の佐賀関合戦(竹田の中川勢と臼杵の太田勢との合戦)のとき兵火にかかり焼失した(佐賀関街道・関往還)そうです
また、その時、早吸日女神社の社殿・宝物も一切が焼失した(佐賀関町史)とのことで、非常に残念なことですね。
現在、この町には銅製錬業の日鉱製錬(株)・佐賀関製錬所の200mの巨大煙突が聳えていますが、早くから採銅所として栄えていたのでしょうか。
近くの遠見山の「幸ノ浦遺跡」からは石棺と古式土師器の破片が出土しており、それらは4~5世紀のものと推定されているようですし、同じく遠見山の南麓からは中広銅矛(弥生時代中期から後期前半ごろのものと比定)も発見されています(佐賀関町史)。

金山彦神(=加具土(かぐつち)=事解男(ことあきお)=気吹戸主(いぶきどぬし))は、九州王朝第1期親衛隊長として神武天皇をお護りしていたようですが、その一方で、優秀な鉱山技師でもあったようです。

百嶋系図では金山彦神は西暦106年に、そして埴安姫命(=金山姫神)は西暦113年にお生まれになっていますが、ご夫婦で当地に赴任されていたのかもしれませんね。
そうであれば、八十枉津日(=瀬織津比売櫛稲田姫)を祭神とする早吸日女神社の前身である元宮が、金山彦神をお祀りする金剛山明神祠の近くに鎮座していたことは、何となく、納得できます。

では、祭神に戻りましょう。

底筒男神(そこつつのをのかみ)、中筒男神(なかつつのをのかみ)、表筒男神(うはつつのをのかみ)は住吉三神と呼ばれているもので、これについては、ひぼろぎ逍遥「155 百嶋神社考古学では住吉三神をどう考えるか」で詳しく考察されています。

要するに、
 底筒男命  開化天皇(1775) 久留米高良大社の祭神=高良玉垂命
 中筒男命  (贈)崇神天皇(1805) ツヌガノアラシト(大山咋命の子)
 表筒男命  安曇磯良(1815)  大川風浪宮の祭神
であり、当然、底筒男命が最上格であり、残りの二神は臣下だったようです。

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境内社:伊邪那岐社(伊邪那岐神):屋根にはチタニウム板が用いられている
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境内社:神明社(天照皇大神)
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境内社 左:生土社(埴安神)、相殿社(健磐龍神・武内宿禰神)
    右:木本社(椎根津彦神)
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境内社:歳神社(大年神、御年神),天然社(醍醐天皇),若御子社(黒砂神・真砂神)
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境内社:天満社(菅原道真公)
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境内社:厳島社(市杵島姫神)hayasu113_2017020412544477e.jpg 

境内社:稲荷社(保食神)
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境内社:神楽殿
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神幸殿
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奥行きのある境内は非常によく手入れされており、ゆるやかな参道を奥へと進むと、迫力ある拝殿がどっしりと鎮座されています。
さすが、式内社の威厳と風格でしょうか。
本殿は貴婦人のように、一際、美しく輝いています。

百嶋神社考古学では、神武天皇東征の伝承は神日本磐余彦尊ご自身ではなく、贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとされています。
ただ、神武天皇による御巡幸(西暦165年頃)はあったようで、コースとしては、西九州を北上し、東北地方まで訪れているようです。

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百嶋系図では、早吸日女神社の由緒にも登場する椎根津彦(=倭彦)は贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)の弟神に当たるようですね。
そして椎根津彦の御子として、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご)の姉妹神がおられるようです。

神社の祭神は、必ず実在した人物であったと、私は考えています。
何故なら、そこに神社があり、伝承が残されているからです。
良く考えれば、解ることだと思うのですが、架空のものに対し、我々は社や祠を用意するなどして、お祀りなどしないのではないでしょうか。

話を早吸日女神社にもどしましょう。

当社の由緒によると、西暦701年(大宝元年)に、御神慮により古宮から遷座したと誌されています。

通常、元宮から遷座する場合は、「参拝するのに不便」とか、「道路の拡幅」や「建物の新設」などといった、極めて人間的な理由によるものが多いようですね。
なので、「遷座」、そのものついては珍しいことではないと思っています。

ですが、この時代、特に大宝元年に何故、遷座する必要があったのか。
何か、腑に落ちませんねぇ。
この「神慮」とはいったい、何を意味するのでしょうか。

ここに百嶋先生の資料の一部に手書きのメモが遺されています。

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そこには、「林」の原点は大分市の「早吸」と書かれています。
何か、謎めいていますが、またまた、難問みたいですねぇ。
ですが、ここのところをボチボチと考えてみたいと思っています。

古代史の謎解きは、やっぱり、興味が尽きませんね。



【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」を是非、ご覧ください!】



Posted on 2017/01/22 Sun. 19:17 [edit]

category: 日記・古代史

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15.丹生の郷の神々③(大分市 屋山 八柱神社) 

その昔、豊後・丹生郷には丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)を祀る神社が三社、存在したと伝えられています。
「一の宮」は大分市宮河内 火振の「阿蘇社」、「二の宮」が大分市佐野の丹生神社,これらは既に紹介しましたね。
そして「三の宮」は定かではありませんが、大分市屋山に鎮座する「八柱神社」ではないか、と云われています。

境内入り口の鳥居と参道
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神門
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拝殿は千鳥破風唐破風付きの立派な造り
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拝殿屋根に施されている神紋(七曜紋)
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注連縄は両端が丁寧に、きちんと揃えられていました。
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拝殿入り口の扁額
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拝殿-申殿内
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千木は外削ぎ、鰹木は奇数(3本)で男神を表しています。
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見事な本殿の床組
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社伝によると、当社の創建は承和11年(875年)とされていますが、天正14年(1586年)、薩州勢が豊後に侵入した際に社殿や宝庫、古文書などが焼かれてしまったため、創設当時の状況は詳らかでないようです。

現在の祭神は、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のひとつ「神殿」にお祀りされている神々と同一とのことで、「神祇官八神(じんぎかんはっしん)」、「宮中八神(きゅうちゅうはっしん)」、「御巫八神(みかむなぎやはしらのかみ)」、「美保貴神(みほぎのかみ)」、「鎮魂八神(みたましづめやはしらのかみ)」などとよばれています。

「祭神」(Wikipedia参照)
 高皇産靈神(タカミムスビノカミ)
 神皇産靈神(カムミムスビノカミ
 魂留産靈神(タマツメムスビノカミ)
 生産靈神(イクムスビノカミ) 
 足産靈神(タルムスビノカミ) 
 大宮賣神(オホミヤノメノカミ) 
 事代主神(コトシロヌシノカミ) 
 御膳神(ミケツカミ)

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八柱神については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)「196 八島神社の衝撃 “山鹿市千田聖母宮摂社の八島神社”」で古川氏が解説されています。

始めの高皇産霊日神は高木大神、足皇産霊日神は不明、神皇産霊日神は博多の櫛田神社の大幡主、御食津神は伊勢の外宮の豊受大神、玉皇 産霊日神はもしかしたらヤタガラス=豊玉彦、事代主神は恵比寿、生皇産霊日神はもしかしたら生目=垂仁天皇?、大宮売神はもしかしたら金山彦?
 となりますが、これ以上は良く分かりません。

ただ、どうも九州王朝を支えた神々が並べられているようで、九州王朝が滅ぼした神々には思えません。
少なくとも蹴破りによって茂賀浦が失われた際の八匹の亀に象徴される先住者の海人族の痕跡ではないようなのです。
これ以上の推測は無意味と言うより害悪になりますのでやめておきますが、最後に少しヒントになるものを発見した事からご紹介しておきます。

それは「熊本県神社誌」(上米良純臣編著)です。これには、「往古この辺は茂賀浦と称する一帯の湖であったが、神功皇后朝鮮出兵の途につき香椎の宮にます(ママ)頃奇瑞あり、ここに八神を祀り戦勝を祈願せられたと伝える。」とあるのです。
とすると、ここに祀られていた(いる)のは、近畿大和朝廷の前に九州王朝を支えた神々であり、その意味での敗惨した神々になりそうです。

そこで神域を見ていると、注連縄が緩んでおり祠の扉が多少開いていた事から開帳させて見せて頂いたところ、中には剣唐花の神紋の描かれた服を着た神像が鎮座されていたのです。
剣唐花は高良玉垂命の本当の神紋であり、現在の高良大社の裏紋でもある木瓜紋は本来のものではなく実は臣下である祇園社のそれなのです。

そこまで分かると、ようやく正面の千田聖母宮との関係が見えて来たのでした。

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(古川氏ブログ「196 八島神社の衝撃 “山鹿市千田聖母宮摂社の八島神社”」から転載)


ここ、屋山地区は丹生川の支流「屋山川」に沿って南北に細長く続き、姫岳の裾まで奥深く切り入っています。
地形は起伏に富み、遠端である姫岳の裾野は屋山川の水源ともなっています。

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そして、この屋山の奥深くに、八柱神社の元宮があったと伝えられています。
この八柱神社は私にとって、とても謎めいたお宮の一つでもあるのです。

まず、由緒のこと。

この元宮が鎮座していた場所について
郷土史「佐尉郷(さいのさと)」には、

昔は本殿はゴンの山の山中の巨岩の上にあり、拝殿が上床、加志場、加比母登(カヒモト)にあり、村人は谷川をへだてて拝殿から参拝していた

さらに、

八柱の神は遠州池田から飛来したという伝説があります

と、誌されています。

ここ八柱神社についてはよく分からないところもあったので、現宮司の杉崎氏や「海部古墳資料館」の館長さんで坂ノ市の郷土史に詳しい栗野氏にもいろいろとお訊きしたところです。

まず、元宮の鎮座地、「加比母登(カヒモト)」については、「屋山の奥」とされているものの、場所の特定はできませんでした。
屋山の奥は姫岳の裾野にあたるので、おそらく、その辺りなんだろうと思われますけど…。

それから、「八柱の神は遠州池田から飛来したという伝説」。
そもそも、「遠州」とは静岡県の西部、都市名で言えば、浜松・磐田・袋井・掛川・菊川・御前崎周辺のことで、地図を見ると天竜川から大井川を挟んだ地域のようですね。

ネットで調べると、浜松市に「八柱神社」がありました。
ただ、この社は江戸時代までは、八柱神社神官・袴田家の邸内に在って八王子寺社と呼ばれていたようで、どうも今ひとつ繋がらないような気がします。

さらに調べてみると、
磐田市池田地区に鎮座する「天白神社」なるものが見つかりました。
「遠州池田」と繋がりそうな予感…。

磐田市観光協会によると、
天白神社の起源は、奈良時代の女帝 孝謙天皇の頃。鎮守は猿田彦命(サルタヒコノミコト)です
ということです。

一見、当社とは繋がらないかな、と思ったのですが、よく調べてみると、境内社にしっかり祀られていました。
当社の境内社には祭神として、保食大神(ウケモチノオオカミ=宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)猿田彦大神(サルタヒコノオオカミが祀られていました。
実に興味深いです。

境内社「稲荷神社」
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百嶋神社考古学では、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)は伊勢神宮外宮の主祭神、豊受大神のことであり、香春神社の主神である辛国息長大姫大目命カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト=天鈿女命(アメノウヅメノミコト))と同一とされています
そういえば、この天鈿女命は、前回紹介した丹生郷の一の宮「阿蘇社」の祭神としても祀られていましたね。
そして、猿田彦山幸彦のことであり、豊受大神(=辛国息長大姫大目命天鈿女命宇迦之御魂神)とは夫婦神なのです。

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スサノヲ神大市姫(=罔象女神ミヅハノメ))の御子である豊受大神(=辛国息長大姫大目命支那ツ姫天鈿女命)は海幸彦支那ツ彦大年神天児屋根)との結婚生活は短かったようですが、その後に結婚した山幸彦(=猿田彦)とは長く続いたとのことです。

百嶋先生の講演記録から豊受大神猿田彦とのお話です(「肥後翁のblog」から転載)。

そして今度は、最後に丸、これは瀬高、ここ筑後、ここは筑後です。
何で筑後かというと、現在の伊勢の外宮、そして稲荷様の女神様のからくりです。
この方の名前、大姫、大目姫と名前をいくつも書いています。
大姫のとき、この人の最初の旦那さんは海幸彦です。
そこで、今度は名前を大目姫にお代えになった。
この時の旦那様は猿田彦です。
これが瀬高の女山の女の神様を猿田彦が道をふさいで、実は塞いだのではなく、どうぞご案内申し上げますといって、九州王朝のほうにご案内申し上げた。
(中略)
そして、大目姫はウズメノミコト、ウヅメ姫です。
アメノウズメノのミコトが猿田彦に邪魔されたと思いきや、さにあらず、御案内申し上げますといって案内された。
その最初の旦那、海幸彦、そして、次の旦那、山幸彦、その分岐点がこの筑後の国、瀬高です。
そういうような歴史を持っているけれども、極秘極秘の度合いが過ぎてさっぱりわからないようになっているのが、それが瀬高の女山です。

つまり、境内社の稲荷神社に、夫婦で祀られているということですね。
そして丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)はスサノヲの姉、神俣姫のことですので、豊受大神は姪にあたることになるのでしたね。

その次に神紋
この地は江戸時代、佐賀関や野津原などとともに肥後熊本藩の飛び地だったとのことで、その藩主、肥後細川氏は九曜紋を使っており、当社の神紋と何か、関連があるのかもしれませんね。
、家紋Worldの「名字と家紋」で「七曜紋」を調べてみますと、

北極星の周りを巡る北斗七星を象った七曜があり、北斗星紋ともいわれ日・月・火・水・木・金・土を表したもので 妙見信仰から生まれたものだ。このように、星=曜は天体を変わらぬ規則で巡る星への信仰を形とし、信仰心、とくに 武家では武神として崇敬、みずからの家紋として用いるようになった。 

ということのようで、戦国時代に海の大名として名を馳せた九鬼氏、神社では兵庫県の名草(なぐさ)神社などが知られているようですね。

ただ、私が神紋で気になったのは、「剣花菱」紋なのです。
拝殿-申殿内にかけられている幕に、「剣花菱」が描かれていたのです。

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杉崎宮司の話では、この紋は杉崎家の家紋とのことでした。
剣花菱紋は本殿の床下に保管されていた瓦にもありましたし、別の瓦には十六菊紋も見つけることができました。
さらに本殿は実に見事な彫り物で飾られているのですが、この横面にも剣花菱紋が施されていました。

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杉崎家は天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖とし、初代 重秀 氏が元久2年(1205年)に宮司職となってから、現在で24代目とのことです。
初代は、神社草創期から350年ほど経過していますね。

天児屋根命についてウィキペディアから引用しますと、

春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも呼ぶ。
岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。
天孫降臨の際、瓊瓊杵尊に随伴し、古事記には中臣連の祖となったとある。 
名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。

また、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の古川氏は、

これも百嶋神社考古学では明確で、この天児屋根命とは阿蘇の草部吉見神=ヒコヤイミミであり、それは、通説による表向きの解釈は確かにその通りなのですが、実はそれには大きな舞台裏があるのです。

まず、古代は母系制社会だったためか、有力な先住民族(氏族)への入婿として何波にも亘る外来(渡来)民族(氏族)の侵入を受け容れ、その有力者との政略結婚を繰り返してきたのです。

  春日大神が何者かについても説明が必要ですが、奈良の春日大社とは藤原不比等が平城京移転に合わせ、自らの権勢を長らえるために、常陸の鹿島大社から剣豪 塚原卜伝が信奉した武甕槌神(実体は秘密に近く全く知られていませんが、阿蘇草部吉見神=ヒコヤイミミなのです)を勧請し自らの氏族の守護神=軍神とした のです。

これも、春日大神と天児屋根命を別神としていることが単なる神社伝承の混乱なのかそれとも裏事情を知っての事なのかが気になるところです。

 何故ならば、奈良の春日大社の奥には水屋神社なるものがあり、草部吉見神の妃でもあった韓国息長大姫大目命を祀るなら分かるのですが、本当は、その母神である(父神はスサノウ)神大市姫=弥都波能売神(罔象女神)を祀っている事から、そのような裏事情を知ってのものとすることもできるのです。
(ひぼろぎ逍遥(跡宮)「172 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 ⑥天照宮(宮若市)」から転載)

と述べられています。

百嶋神社考古学では、天児屋根命とは海幸彦であり、支那ツ彦や大年神と同一なのです。
ただ、剣花菱紋との関係は不明でした。

神社横手の鳥居
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幹線道路に面した神社入り口から、石段を登り詰めた境内は思いのほか広くて明るく、とても綺麗に整備されていました。
宮司夫妻も、とても気さくで、突然の訪問にも親切に対応していただきましたし、さらに家系図の写しまで拝見させていただくなど、恐縮至極でした。

思うに、当社は、丹生都姫の姪にあたる保食大神(=宇迦之御魂神=辛国息長大姫大目命=天鈿女命=豊受大神)が猿田彦大神(=山幸彦=彦火々出見=五十猛)とともに夫婦神として祀られている境内社が重要な意味を持っているのではないでしょうか。

それは、八柱の神々や剣花菱紋とともに、九州王朝との繋がりを暗示しているのかもしれませんね。

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【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
   ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/

Posted on 2016/12/28 Wed. 20:47 [edit]

category: 日記・古代史

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