10 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 12

ひとつあがりのカフェテラス

古代日本、いわゆる神代の時代、日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

21.【神武天皇伝承】椎根津彦神社(大分市佐賀関)と大和神社(奈良県天理市) 


このところ、
佐賀関の椎根津彦神社詣でを繰り返しております。
理由は、夏に訪れた奈良の大和神社(おおやまとじんじゃ)で、神職の方から聞いた言葉が耳に残っていたからでした。
それは、大和神社に鎮座する日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)とは「椎根津彦」のこと、というものでした。

以来、佐賀関神山に鎮座する当社を幾度となく訪れ、そのことについて考えを巡らせているのでした。
もちろん、社殿や境内を幾ら見渡しても、ヒントの欠片も落ちておりませんが‥。

800siinetuhikotizu-3.jpg 


ここ椎根津彦神社は、佐賀関の半島地頸部に早吸日女神社と山一つを隔て、背中を合わせるように鎮座されています。
社格は旧縣社なのですが、参拝者もあまり多くないためか、どことなくひっそりと静かに佇んでいる、といった印象です

漁港近くに車を駐め、海岸沿いの国道と平行して山際を縫うように走る細い路地をしばらく進んでいくと、民家に挟まれた、うっかりすると見過ごしてしまいそうな参道入り口に辿り着きます。
少しばかり参道を登り、見上げると、これまでの神社とは少し違った感じの社殿が山を背にして鎮座されています。
海上からの強い風雨に負けないよう、コンクリートで丈夫に造られた拝殿です。

椎根津彦神社の社号標
500siinetusyagouhyou.jpg 

境内入り口の鳥居と参道
800siinetorii.jpg 

拝殿
800siinehaiden.jpg 

神額
800siinetusingaku.jpg 

本殿:見返り龍の虹梁
800siinetukouryou.jpg 

拝殿-本殿
800siinetuhaidenhonden.jpg

本殿
800siinetuhonden.jpg

 800siinetuhikoyuisyo_20171018134006ad4.jpg 


祭神は椎根津彦命(しいねつひこのみこと)。
そして、武位起命(たけいこのみこと)、稲飯命(いなひのみこと)、祥持姫命(さかもつひめのみこと)、稚草根命(わかかやねのみこと)が合祀されています。

椎根津彦命について、ウイキペディアでは

神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。
その後、神武天皇に献策し、兄磯城( えしき )を挟み撃ちにより破る。
速吸門については諸説ある。
『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、大分県大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。
『古事記』では吉備国の児島湾口を指すと考えられる。
岡山県岡山市東区水門町には、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。

と記載されています。

県内で椎根津彦命を祀っている社は、当社近くの早吸日女神社の境内社として鎮座している木本社(きもとしゃ,こもとしゃ)、それから由布市湯布院町の大杵社(おおごしゃ)などで、いずれも神武天皇の東征神話と由緒が関連づけられています。

百嶋神社考古学では、神武天皇東征の伝承は神日本磐余彦尊ご自身ではなく、(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとしています。
中津市の薦神社(こもじんじゃ)に「一つ巴紋」が飾られていますが、この神紋が贈)崇神天皇の足跡の証とされています。

薦神社の神門
800komosinmon.jpg 


そして、(贈)崇神天皇椎根津彦は兄弟であり、共に母は鴨玉依姫(神直日)とされています。
さらに、百嶋系図では、鴨玉依姫早吸日女(ブログ№18「早吸日女神社③」を参照)と同一神とのことでしたので、早吸日女神社近くに息子神である椎根津彦命が祀れていることは当然と言えば、当然なのでしょうかねぇ。


600siinekamo.jpg 


百嶋系図でも「倭彦」の文字が確認できますね。
では、大和神社とはどういった繋がりがあるのでしょうか。

椎根津彦について佐賀関町史(昭和45年発行)には、

 速吸の門を通過の際、天皇は国神(くにつかみ)椎根津彦(珍彦(うずひこ))に遭われこれを水先案内とされたが椎根津彦は行く先々で戦功を立て、後に倭直部(やまとのあたひら)の先祖となった。
 もとより『記紀』の神武伝承は神話であって、史的事実と違うが『記紀』を科学としての歴史の立場で読めばその中に建国期における佐賀関の価値も見出せると思う。
 ただ速吸の門の椎根津彦のくだりが、『記紀』の夫々の記述にいささかの相違点があるので、次に原文のかきくだしをのせて対比して見よう。

『古事記』の記述
 「故(かれ)其の国より上り幸(せ)でます時に、亀の甲(せ)に乗りて釣ししつつ来る人、速吸門に遇いき。ここに喚びよせて「汝は誰ぞ」と問はしければ「僕(あ)は国の神名は宇豆毘古(うづひこ)」とまをしき。
 また「汝は海道(うみつぢ)を知れりや」と問はしければ「能く知れり」まをしき。
 また「従(おとも)に仕へまつらむや」と問はしければ、「仕えまつらむ」とまをしき。
 かれすなはち槁機(さお)を指し渡して、その御船に引き入れて、すなはち槁根津日子(さをねつひこ)といふ名を賜ひき。
 こは倭の国の造(みやつこ)等が祖なり。」

『日本書紀』の記述
 「天皇自ら諸皇子を帥ゐて、舟師(みふねいくさ)東を征ちたまふ。
 速吸之門に至ります。
 時に一人漁人(あま)有り、艇(をぶね)に乗りてまゐる。
 天皇招(めし)せて、因りて問ひて曰わく、汝(いまし)は誰ぞ。
 対へて曰く、臣(やっこ)は是れ国神(くにつかみ)なり、名を珍彦(うづひこ)と曰ふ。
 曲浦(うらわ)に釣魚(つり)す。
 天つ神の子(みこ)来(いで)ますとうけたまはり、故(か)即ち迎へ奉る。
 又問ひて曰く、汝能く我が為に導(みちびき)つかまつらむや。
 対へて曰く導つかまつらむ。
 天皇勅して漁人に椎槁(しいさを)の末を授(さしわた)して執らしめて、皇舟(みふね)にひきいれ、以て海導者(みちびき)となし、乃ち特に名を賜ひて椎根津彦と為したまふ。
 此れ即ち倭直部(やまとのあたひら)が始祖(とほつおや)なり。」

 さらに『日本書紀』では神武天皇が国見丘の八十梟帥(やそたける)を征伐の際、椎根津彦天皇の命を受けて敵地に潜入し、天香山の土をもって帰って献上して戦勝の占に役立ち、また兄磯城彦を帰順させた際にも椎根津彦は天皇に奇策を献じて、皇軍を有利に導いたことなど、椎根津彦の活躍が大きくとりあげられている。
(中略)
 その他、『姓氏録大和神別(815年、万多親王編)』には「大倭宿禰の祖で神知津彦と号す」とあって書紀と同様の説話がのせてあり、『姓氏録右京神別』には「青海の祖」とあり、『姓氏録摂津神別』には「大和連はその11代孫御物足尼の後、物忌置はその9世孫矢代宿禰の後」と出ている。

と、記載されています。
さらに、「神武天皇の御東征と椎根津彦(昭和15年 大分県北海部郡教育会 発行)」には、
 
 倭國造(大倭國造)の本據は、和名抄にある大和國山邊郡大和(おほやまと)郷、即ち今の奈良縣山邊郡朝和村の地方である。
 椎根津彦の裔は、大和直(大倭直)と青海首となった。
 大倭直の宗家は、のち連姓となったが、天武天皇の十四年六月二十日忌寸姓を賜はり、次で聖武天皇の天平九年十一月廿二日、更に宿禰姓となった。
 また青海首は、崇神天皇の御代、越後の久比岐(くびき)國造となり、後の頸城郡を本據とした。
 いま新潟縣南蒲原郡加茂町大字加茂に、椎根津彦を祭神とする縣社青海神社の鎮座するは、かゝる由緒からである。

と、記されています。

一方、椎根津彦の活躍ぶりについて、百嶋氏は講演会で、このように話されています(「肥後翁のblog」から転載)

丹後の宮津湾と阿蘇海(あそかい)の真ん中を仕切って通っているのが天の橋立です。
この天の橋立に引き切られたほうに阿蘇海に面した端っこにコノ神社があります。
同じ場所ですが、大江山いくのの道の遠ければ、まだ文も見ず天の橋立、この大江山には、皇大神宮ならぬ皇大神社があります。
これは皆さんほとんどご存じないと思いますが、九州王朝神霊東遷、九州王朝、背振山におられた九州王朝の神霊を、偉い方々が、担いで東に遷られる。
そして、どこに落ち着かれたかといいますと、その出発地はイズミ、九州王朝の本家本元はイズミ、これは背振山の最も佐賀市に近い割と平地、そこは高良山との関係が大変深いところです。
ほとんどの方がユダヤ系統の方です。はっきり、そこのお宮さん、ユダヤのお宮さんにお参りなさると、このお宮を守った人達は、丸、丸、丸を苗字として名乗っていらっしゃいます。その代表が玉屋の社長田中丸さんです。
そこの兄弟神社が、琵琶湖の比叡山の下に、厳島神社と同じ鳥居をもったお宮さんがあります。
猿田彦を祀ってあります。
この比叡山の下のお宮さんと、佐賀のいずみは兄弟です。
そして、ここ、佐賀のいずみから九州王朝は出発されまして、どのようなコースをお辿りになたかは判りませんが、船を利用されたことは判ります。
書いてあるから判ります。
どこに書いてあるかといえば、一番はっきりしているのは、京都の鞍馬寺の下のお宮さん、水の神様としてとても有名なお宮さん、とにかく鴨川の途中で髙何とか川に分かれた髙何とか川の終点です。
そこに行きますと、佐田大神の末のお子様を守った小さな祠があって、この神様、シイネツ彦神武天皇の、但し、この神武天皇は本当の神様ではなく、俗称神武、即ち、祟神天皇のカジトリとして大いに功績があったと書いてあります。
従って、お宮さんの名前はカジトリ社となっています。シイネツ彦、別のお名前をウズ彦、このウズ彦の銅像が先ほど言ったコノ神社にございます。
そして一方、大江山の方に、そっくりそのままのとてつもなく判りやすい伊勢皇大神宮が現存しています。
それは明らかに九州王朝神霊東遷の牙城のひとつです。
即ち、大江山の皇大神社には一々丁寧に伊勢皇大神宮の配置をはっきりと書いておられます。そこで、もらった資料には、どえらい記事が沢山あるのですが、どえらい記事の中にどえらい方がおられました。
ここにさっき、ミヅハノメノ神、竜神様と申し上げました。
もともとの春日大社のもともとの本当のご祭神はミヅハノメの神様、竜神さまと申し上げた。その方が、ちょこっと、イワノ姫としてもお名前を出されている。
イワノ姫は神代譜なんかで時々名前が出てきますが、ところが御素性が全くわかりません。
実は、ミヅハノメの神様を隠すために、偽の神代譜が、古事記・日本書紀によって出来たのです。
即ち、イワノ姫ミヅハノメの神なのです。
従って、そっち(偽の神代譜)にも配慮して、イワノ姫の名前も付けたしておられるというわけです。
このことを最もよく残しているお宮様が奥伊勢にあります。
影だけ残しています。
皇大神宮及び松阪の那の国の集落、両方から川を上ります。
伊勢皇大神宮のウジヤマダの五十鈴川から登ります。
片方(松坂)はクシダ川です。
両方ともそれが到達するところに奥伊勢があって、ここにミズヤ宮があります。
ミズヤ宮とは本当はここにあったのではない、奈良の春日大社、即ち、ミズヤ宮です。
春日大社と言い出したのはこのごろの事です。
古い時代の主ご祭神は竜神姫で、そのころ並んでいるご祭神名は何とか歴史に合う納得できる御神名が書かれていますが、戦後では、竜神姫は蹴落とされています。
春日の大神が主祭神になっています。
これは藤原がやったことです。
どの血統もいいこと悪いことをやっていますが、藤原も日本最大の悪をやっています。
とにかく、みんな悪いこともやり、いいこともやっています。
そう考えられれば罪がないです。

1500tousen.jpg 


つまり、椎根津彦は母親の鴨玉依姫らとともに九州王朝の神霊(天照神武天皇)をお護りして東遷を(西暦228年)を実現されたようですね。
この時、椎根津彦は31歳と資料に記されています。

こうした功績が認められて、椎根津彦倭彦となられたようですが、果たして、その後、日本大國魂大神として祀られたのでしょうか。
今ひとつ、はっきりしませんねぇ。


600keizu5.jpg 


百嶋系図ではその後、椎根津彦(贈)垂仁天皇(=生目入彦=宇佐ツ彦)の妹を后とし、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご)の二人のお子様をもうけられています。
の姉妹については、海女、黒砂 真砂の二神が速吸の瀬戸の海底から大蛸が守護してきた神剣を取り上げて天皇に奉献し、その神剣を御神体として天皇御自ら古宮の地に奉斎し建国の大請願をたてられたのが創祀である」と早吸日女神社の由緒にも登場しています。

椎根津彦は保久良神社(兵庫県神戸市東灘区)にも祀られており、おそらく、瀬戸内の西端から東端までの海路一帯を掌握していたのでしょう。
この椎根津彦神社は早吸日女神社の小野宮司が兼務されていますが、宮司の話では、当社地は椎根津彦生誕の場所ではないか、ということでした。

百嶋系図では、椎根津彦命鴨玉依姫(=早吸日女)の子供神であり、共に添うようにこの佐賀関に鎮座されていることなどから、そうかもしれないなぁ、と思いつつ、屋根に飾られている「上り亀」の神紋を今日も眺めるのでした。

丹羽基二著「神紋総覧(講談社)」に珍しい神紋として紹介されている
「上り亀」:椎根津彦が大亀に乗って現れたことに因んでいるという。
800noborigame.jpg 

境内からの佐賀関漁港
800siinetukesiki.jpg 

800sabaaji.jpg 



【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】



Posted on 2017/10/03 Tue. 21:30 [edit]

category: 日記・古代史

TB: --    CM: 0

03

20.奈良・山の辺ラインをちらほらと「大和神社」② 


大和神社の創建時の鎮座地については、「神地を穴磯邑(あなしむら)に定め、大市の長岡岬(ながおかみさき)にお祀りなされた。」と当社由緒に記されているように、当地とは別の場所にあったようですね。

当社資料には、その場所について

『日本の神々(白水社刊)谷川健一編』では、鎮座地の「大市の長岡岬」については諸説あって混沌としている記したうえで、次の5説を紹介しています。
⒈ 大市長岡岬を城上郡(しきのかみごおり)の穴磯(あなし)神社(大兵主神)の地に比定し、そこから垂仁朝に現在地に移ったとする説  (『大日本地名辞書』)
⒉ 大市長岡岬を長岳寺(上長岡町)の地とし、現在地に移ったとする説  (『大和全国式内祭神略記』)
⒊ 大市を城上郡大市郷とし長岡岬を
 ①狭井神社の西の丘陵突出部とする説。
 ②檜原神社の西の丘陵突出部とする説。
 ③巻向山山崎とする説。
※狭井神社、檜原神社は共に明治10年以降大神神社社の摂社となりましたが、その以前は大和神社と大いに関係があり狭井神社は別社であったようです。(『日本の神々 -神社と聖地- 4 大和』)

現在の御旅所である大和若宮神社(中山町の大塚山古墳前方部)とする説。
大市長岡岬から神山(天理市岸田町小字神山?)に移り、永久6年(1118年)の大火災後現在の地に社殿が造営されたという説。 
「山辺郡誌」の引く伝承によれば、もと中山町の高槻山に鎮座していたが、奉幣使の便宜をはかって現在の地に移り、永久6年の火災後一時、旧地に戻った。その他、天正11年(1583年)の兵火で焼失した後一時歯定神社に移ったとする説もあるとのことです。
 
 私は、大和神社創建時は、1か3の説に従いたい。つまり「大市」は「城上郡大市郷」のこととし、三輪山から穴師かけての岬に鎮座しておられた。そして、釜口長岳寺(天理市上長岡町。古代地名;城上郡下野郷か)が神宮寺として建立された天長元年(824年)の頃には中山町に、その後、現在の地に遷られたと考えています。

と記述されています。

820ooyamatizu.jpg 


この記述の中では、檜原神社と狭井神社が気になりますね。
檜原神社は檜原台地に鎮座する「桧原神社」が正式名称とのことです。

「桧原」と言えば天照大神、と言うように百嶋先生も常々、その強い関連性を話されています。
福岡市南区の桧原地区も天照大神と大いに関係があるようです。
そして、同様に「柏原(橿原ではなく)」の地名は神武天皇と関係が深いとのことでした。

それから、狭井神社の「狭井」からは(このことは百嶋神社考古学研究会のU女史に指摘していただいたのですが)、市杵島姫の別名の「佐井」が連想されますね。
事実、狭井神社の近くには市杵島姫神社が鎮座されています。

百嶋系図は、市杵島姫の別名として、「瀛ツ島(おきつしま)姫」や「スセリ姫」を用いられていますが、「佐井」や「佐用」も代名詞だったようです。

800yositomi.jpg 

この図は大分県との県境に位置する福岡県築上郡吉富町のものですが、この地に流れている「佐井川」の由来は、市杵島姫と関係が深いようです。
それは、百嶋系図では市杵島姫の御母は「アカル姫(=イワナガ媛)」であり、アカル姫は大分県宇佐市安心院町の「妻垣神社」から、ここ吉富町の「八幡古表神社(ブログ№12を参照)」に移られているようなのです。
ですから当然、この地は親子でゆかりが深いわけですね。

いずれにしても、檜原・狭井の両神社とも九州王朝との関係が深いようなのですが、大和神社の元々の鎮座地を特定することは難しいようです。

百嶋氏の講演から。

それでですね。佐賀の泉の久保(久保泉)から移って移って、移って行って、先ず、四国に渡ります。
その次は「いずみの国」に移ります。大阪の和泉です。
そして、今度は天理に移ります。天理、奈良のですね。要するに移って移って移っての終点。
途中にもありますけど、終点には本物がいっぱいあるんですよ。でも、発表できませんよ。
そして、そこの本物の本物は大国主ですよ。
で、そのぉ、それが何を意味しているかというと、1期の親衛隊長は金山彦。
それからちょっと時代が下がって、2期の親衛隊長は大国主。
そして大国主の家来じゃないけど、伊勢の外宮様なんかも配下として入っていて、九州王朝をお護りするために大変な努力をなさった。
その努力をなさった場所は佐賀の久保泉ですね。

九州王朝初期に親衛隊長として神武天皇をお護りしたのがイスラエル系統の金山彦尊。
その後、中期の親衛隊長が大国主命で、懿徳、孝霊両天皇にお仕えし、当神社では八千戈大神(やちほこのおおかみ)として本殿(向右)に祀られています。
本物の本物と百嶋先生が話されているので、大国主命はこの地まで、市杵島姫とともにやってきたのでしょう。
百嶋氏によれば、大国主命が本当に活躍された場所は関東とのことで、その結果、「武蔵大國魂大神 (おおくにたまのおおかみ)」として鎮座されてるようです。

また、本殿・向左に祀られている御年大神(=ハイキ神=早岐神=波比岐神=贈・孝安天皇)は九州王朝の特務機関長として隠密行動(スパイ活動?)の任に当たっていたとのことで、東遷の際には、軍団の警護に力を注いだものと思われます。

810ooyamatakaokami.jpg 


であれば、中央に祀られている「日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)」とは、いったいどなたなのでしょうか?
やはり神武天皇のことなのでしょうか?

ここに興味深い百嶋系図があります。

800ooyamakeizu.jpg 

この系図の孝霊天皇には「大和大国魂」と記されていますね。
さらに別の系図には、孝元天皇の横に「倭大国魂」と書かれています。
このことは、どう考えればよいのでしょうか。

思うに「日本大國魂大神」とは神武、懿徳、孝霊、孝元と続く、呉の太白「姫氏」の系統である、(百嶋先生の言葉を借りるならば)「正統皇統」の神霊のことではないでしょうか。
尊い神霊を九州から運んできた。
その途中、所々で「いずみ」の御印を残しながら奈良の地にたどり着き、そこを「新泉」と名付けて終点としたが、何故か、それらのことは史実からすっかり消されてしまっています。
しかしながら、本物の本物は今なお、この朝和の里に眠っているのでしょう。

今一度、「大和神社由緒略誌」を読み返すと、

主神は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)とも申し上げ、地上・地下万物の生育発展、人間及び生物の生命・壽を司り給ひ、日本大八州の国魂に坐す偉大尊貴なる御神格に坐します。

との記述に気づきました。

おそらく、そういうことなのでしょう。

長岳寺の庫裏(重要文化財)では寺料理の「そうめん」を美味しく
いただき、一時の涼に心身ともに和むことができました。
800tyougakuji3_201708121726489aa.jpg 

800tyougakuji2_201708121726479c3.jpg 

800tyougakuji1 


【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】

Posted on 2017/08/12 Sat. 20:00 [edit]

category: 日記・古代史

TB: --    CM: 0

12

19.奈良・山の辺ラインをちらほらと「大和神社」① 


連休を利用して奈良の地を探索してまいりました。
奈良へは以前、仕事の関係で大阪に赴任していた時以来なので、15年ぶりになります。
当時は京都や大阪方面での仕事が多かったため、奈良にはあまり行かず仕舞いでしたねぇ。
なので今回は、リベンジ的な気持が多少なりともあったかと思います。

だけど、奈良も暑いですねぇ。
刺さるような陽射しに、
「九州よりも暑いじゃん!」って
同行の息子に愚痴が思わず口を衝いて出てしまいます。

今回の奈良入りの最初の訪問は
まずもって「大和神社(おおやまとじんじゃ)」です。
私にとっては、前々からお詣りしたい社のナンバーワンでした。
鎮座地は奈良県天理市新泉(にいずみ)

百嶋氏は講演会で、この地「新泉」に関連して(「肥後翁のblog」から転載)

イズミの話はしました。
もう一つ、イズミとソネ、イズミの出発点は佐賀です。
ソネの出発点は前原のソネ台地、三雲、伊都、そこがソネの出発点です。
このソネとイズミが一緒になって、九州王朝神霊東遷のときに、九州王朝の古い神々をお守りして東へ遷ったのです。
終点は、現在の奈良の天理市、天理王のみこと、天理王のみことは博多の櫛田神社の神様です。そこに到着するまでに、イズミ(佐賀)、和泉(大阪)、最後は、新イズミ、これは現在の天理市です。
一方、ソネ(糸島)、何々ソネ、何々ソネ、終点はやはり奈良です。
とにかくこの二つの系統が九州王朝神霊を大事にお守り申し上げた。
この時の九州王朝神霊御東遷護送団の団長は女性です。圧倒的格式のスサノオのお嬢さんです。イツクシマ神社のイツクシマ姫です。

と話しています。

そして大和神社については、ご自身の資料に「九州王朝の超格式宮」と記されています。

参道入り口の一の鳥居
800ooyamatotorii.jpg 

道路面して建っている一の鳥居から、鬱蒼とした木々に囲まれた真っ直ぐな参道が奥へと続いています。
折しも、氏子の方々が環境整備をされているようで、参道は作業車などで何やら活気づいていました。

二の鳥居
800ooyamatotorii2.jpg 

やがて、二の鳥居を過ぎると、夏日に照らされた拝殿が見えてきました。
杜を背にした社殿が穏やかに鎮座されています。
旧官幣大社の風格でしょうか、威厳に満ちていますねぇ。

拝殿
800ooyamatohaiden3.jpg 

800ooyamatohaiden2.jpg 

800ooyamatosingaku.jpg 

800ooyamatohon10.jpg 


800ooyamahonnden11.jpg 

本殿は一間社春日造り。
檜皮葺で同規模の社殿が三社、並列に鎮座されていました。
建物は木階、扉、千木、垂木、鰹木などに金箔押しの飾り金物が施され、重厚な造りの中にも落ち着いた煌びやかさが心地よく伝わってきます。
千木は三社とも外削り(男神)でした。

800ooyamatoyuisyoban.jpg 

600ooyamatohensen.jpg 

百嶋先生は生前、この大和神社と親交が深かったようですね。
事前に連絡していたこともあり、宮司さんは既に境内で待っておられました。
簡単なあいさつの後、拝殿でご祈祷をしていただき、大神の御前に玉串を捧げることもできました。
思ってもいなかった神事でのおもてなしに痛み入るばかりです。

神社資料(大和神社由緒略誌)によると祭神は、
 
 日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ) : 中央
  (=大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)) 
 八千戈大神(やちほこのおおかみ)        : 向右
 御年大神(みとしのおおかみ)          : 向左

当社発行の「大和神社歴史の変遷(平成29年3月発行)」)には、

【大和神社について】
 大和神社の祭神日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は、第十代崇神天皇により国土(土地)の守護神として、皇祖神天照大神(ああてらすおおかみ)と共に瑞籬宮(みずがきのみや。桜井市金谷付近とつたえられる)の大殿(皇居)内に並斎されていましたが、両神の勢いを畏れ同じ殿内に居ることに不安を覚えた天皇は、二人の内親王、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を斎王として天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)に、渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に大和大國魂大神を託されてお祀りになられました。
 しかし、渟名城入姫命は髪が抜け、やせ細って祀ることができなくなったと崇神天皇の条で日本書紀は伝えていますが、大和神社の場所は記載されていません。
 前者が伊勢神宮、後者が大和神社の始まりとされています。

【垂仁天皇の御代に現れた大國魂大神について】
第十一代垂仁天皇二十六年十月天照大神を伊勢に遷宮された時、大和大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)が大水口宿禰(おおみなくちのすくね)の夢に出て言われるのは、「初めの約束は、天照大神はすべての天原(あまのはら)を治め、代々の天皇は葦原中国(あしはらなかつくに 日本の別名)の諸神を治め、自分は自ら地主の神を治めることであった。先皇は神祇をお祀りになったがその根源を知らず云々」と祀り方に不満を述べられたため、渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)に命じて、神地を穴磯邑(あなしむら)に定め、大市の長岡岬(ながおかみさき)にお祀りなされた。しかし、渟名城稚姫命も髪が抜け、痩せ細って祀ることができなかったので、大倭直(おおやまとのあたい)の祖、長尾市宿禰(ながおちのすくね)に命じてお祀りされたとのことです。

(中略)

「大和神社の神々」
 当初は、日本大國魂大神一座が祀られていたものと考えられますが、延喜式神名帳には三座とありいずれも名神大社と記されていることから、延喜年間(901~923年)には三座が祀られていたことになります。倭大國魂大神以外の二座については、諸説あるようですが、現在は「大倭神社注進状(平安末期の1167年に大倭神社の祝部大倭直歳繁が国司宛てに提出したもの)」に従って、中央本殿に倭大國魂大神、向かって右殿に八千戈大神(やちほこのおおかみ)、左殿に御年大神(みとしのおおかみ)が祀られています。
 日本大國魂大神は、「大倭神社注進状」によりますと、大己貴神(おおなむちのかみ)の荒魂(あらみたま)で大地主神(おおとこぬしのかみ)とも言い、八尺瓊(やさかに。玉の意)を御神体としています。

(中略)

山上憶良が遣唐使の航海の安全を、この神に祈ったことは、当社の祭祀氏族である大倭直氏が関係しています。
「新撰姓氏録」によりますと、大倭直氏は神武東征の時、水先案内者として登場する海人族の椎根津彦(しいねつひこ。日本書紀では豊後水道、古事記によれば明石海峡に最寄りの地を本貫とした)を祖としており、その後、大和国造(やまとのくにのみやつこ)に任じられ、天武朝に宿禰(すくね)姓を賜った氏族です。
 その海人族が祀る神として倭大國魂大神は山上憶良の時代になっても航海神としての神格を保持していたものと思われます。
「日本の神々(白水社刊)」には、「大倭直氏は大和宿禰として奈良時代を通じて当社の祭祀を司り、平安時代に入っても一族の名が国史に散見されるが、中世には史上から姿を消しました。おそらく火災のあった永久6年の頃を境として衰えていったのではないか」と記されています。
(以下、略)
と記述されています。

神社由緒や宮司さんの話などから、本殿の中央に祀られている大和大國魂大神については、大国主命、あるいは祭祀を司ってきた一族の祖である椎根津彦と考えておられるようです。
ただ、右殿には八千戈大神として大国主命が祀られています。
なので、本殿に同じ神が並んで祀られるということは、どうにも考えにくいですね。
また、椎根津彦も水先案内人なので、両神を従えるように中央に祀られるということもないのではなかろうかと思います。

では、日本大國魂大神とは?

そう言えば、百嶋氏と古川氏(ひぼろぎ逍遥)との対談(懇談?)の中で、こういったやり取りが残されています。

古川氏)「伊勢神宮は何で、奈良からあんな外れた所に置かれたのですか?」

百嶋氏)「これはですね、ユダヤ・イスラエル系を中心とした一派が、(すなわち)高木大神を中心とした一派が、そのぉ、この人、呉の国の太白王の系統と対決するんですよ。思想的に。なぁーに、あの、五、六人の奴らのために、自分たちが拝む必要があるのか、ということで、高木大神にとっては従兄妹である天照大神(イトコと思います)の方を現在の天理市から切り離して、連れて行くんですよ、伊勢の方へ。魂を連れて行くんですよ。」

古川氏)「追い出した、ということですか?」

百嶋氏)「連れて行くんです。元々はですね。天理の大和神社に祀られていた天照大神、元々は。それを引っ張り出して、伊勢の方に移したんですよ。」

古川氏)「邪魔だった、からということですか?」

百嶋氏)「ずばり言うて、こっちの系統のですね、直系である神武天皇が気にくわんというわけですね。そして、そのぉ、高木大神は自分の息子のニニギを天孫なんかと言い出したわけですよ。」

古川氏)「…」

百嶋氏)「ところが、威張りすぎたもんですから、高木大神の本家筋にあたる大国主の方が怒っちゃった。大国主はですね、九州王朝を守って、そして、自分の家は潰して、九州王朝から養子を迎えたんですよ。それが現在の、大三島神社、オオヤマツミ神社です。」


800jinmuamaterasu.jpg 


つまり、百嶋系図では、大日女貴(オオヒルメムチ=天照大神)の父は姫氏なのですが、母は高木叔母であるため、天照大神は高木大神の一族であるとも言えます。
一方、神武天皇の御父は天照大神と同じ姫氏(列島・大率)なのですが、御母は白川伯王(奴国王)の御子である(神)玉依姫(かむたまよりひめ)であり、高木大神一族とは相容れない関係であったようです。
ですから、天照大神の御霊は大和神社から追い出されたわけではなく、高木大神の一族によって連れ出され、伊勢の地で奉斎されたということのようです。

ということは、大和神社の中央に祀られている大神は、やはり、神武天皇と考えてもよいのでしょうか
そこのところは、百嶋先生は(無用の混乱を避けるため?)普段の講演会では明言をしなかったようですが、リラックスされた対談の中で、先生の奥深い知見の一端がキラリと光を放ったかのようでした。

おそらく、先生には、真実の大和神社の歴史の変遷がくっきりと見えていたのでしょう。

600ooyamatosyuin.jpg 


【百嶋神社考古学に興味のある方は
 古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】


Posted on 2017/07/28 Fri. 23:30 [edit]

category: 日記・古代史

TB: --    CM: 0

28